犯人側を先に描き、かなり犯人側の視点から描かれているクセに、 .. >(続きを読む)
犯人側を先に描き、かなり犯人側の視点から描かれているクセに、一方でデ・ニーロをかなり立てた描写を盛り込みつつ、実のところ、主役は消防局捜査員なエドワード・バーンズで、って、なんなのよ。この映画の本質である筈の、マスコミによって作られてゆく犯罪者、犯罪を商品にしてしまうマスコミの罪の部分がスカスカというか、最初に伏線で描かれた後は延々と登場することもなく、映画の3分の2くらいが経過した時点でやっとこさ登場、ですからねぇ。犯人側の動機にしても、理解し難いくらいに薄っぺらな描写しかなく、あれでは東欧の人間は単細胞で短絡的、凶悪な蛮族でしかないといった風情。あんな犯人像しか描けないのであるならば、犯人はもっと小出しのミステリアスな描写に落として、主役をあくまでエドワード・バーンズに据えた上で、デ・ニーロはもっとバックアップする側に持って行った方が適切だったでしょう。もしくは、逆にもっとそれぞれの描写を猥雑に盛り込んで、マスコミ側も視聴者の姿も何もかも沢山盛り込んだ上で、1本の群像劇として構成する方法もあったかと。ここには、バランスを計算することを怠った不細工な虚像があるばかり。多重一人称な映画は、構成力が命だという基本を、理解してない感じです。しかもブラックコメディ的な匂いを見せていないこともないけれど、実のところ、笑わせたいのか違うのかが理解できず、非常に中途半端。シニカルになりたいのであるならば、もっと徹底させなさいと言いたいですわ。記号とドラマとを中途半端に組み立てて、観客にひたすら困惑のみを与えるのは止めなさい、そんな映画でございました。