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タイトル名 |
ツォツィ |
レビュワー |
鱗歌さん |
点数 |
7点 |
投稿日時 |
2024-12-01 07:36:10 |
変更日時 |
2024-12-01 07:36:10 |
レビュー内容 |
それっぽい音楽がそれっぽいタイミングで挿入されるときの、気恥ずかしさ、とでもいうのか、かえってしっくり来ないものがあり、この作品もその点で、悪い意味での「メロドラマ」になっちゃってる面が、あります。それでもこれが、主人公の境遇を代弁する音楽なんだよ、ということなのか、それとも、冒頭から陰惨な雰囲気が漂うこの映画、しかし一方で主人公が内面に閉じこもるような晦渋さも含んだこの映画を、「いえ、庶民向けの作品なんです」と中和しようとしているのか。もしももしも後者だったりしたら、映画の作り手が、映画を見る側のことを信用していない、ということにもなるのだけど。まあ確かに、我々一般の見る側が、作り手に信用してもらえるような反応を映画に対して示せていないのも事実かもしれない・・・。 見ての通り、こんなわかりやすい音楽を付けなくったって、難解な作品でも何でもないし、主人公の孤独を描いたこの作品にはむしろ、「音楽」よりも「静寂」の方が雄弁だったのでは、とも感じます。 主人公の孤独。 主人公だけじゃないんですね。夫を亡くして一人で子育てをするあの若い母親も、孤独を感じさせる。障がいをかかえたあの浮浪者ももちろん、そう。 アパルトヘイト後、アフリカ系の人たちの間でも貧富の差が広がり、主人公のようにスラム街に住む者もいれば、中には豪邸に住む者もいるのだけど、しかしいくら物質的に満たされているとは言え事件に巻き込まれ生活を根底から覆されてしまった夫婦にも、孤独の色が滲み出る。 そんな中で心の灯となるのが、赤ちゃんの存在。それはかつての自分の姿でもあって、とにかく、何とかしてやりたい。赤ちゃんは赤ちゃんなりに、オシメが濡れたり腹が減ったりすれば泣いて、生きていくツラさを抱えているんだけど、まだこの世間のツラさというものに接していない純粋さが、ある。どうやって育てればいいのかわからないし、自分と同じような生活をさせていればいずれはかつての自分のように、帰る家もなく土管で生活することになるのかもしれないけれども。かつて自分がいた土管には、今は別の子供がいて、同じような境遇が繰り返されていく。 主人公が出会い、不器用ながらもそれまでの無軌道な日常から変化させるキッカケとなるこの赤ちゃん、映画の中でその表情や仕草がうまく捉えられ、活きています。主人公はこの赤ちゃんを紙袋に入れて運ぶなど、やってることは最後までメチャクチャなんですが、不器用なりの接し方の中から、「何とかしてやりたい」という気持ちが浮かんできて。 その気持ちを主人公が表情に逐一出しちゃうのが、これもメロドラマとしてのこの作品の弱さ、のようにも思いつつ。しかしその表情の変化は控え目であって、彼の孤独を感じさせるのを妨げる程のものではなく、むしろ他者と接点を持つことで、その接点を探るような彼の視線の不器用さが、逆に孤独を際立たせているようにも感じます。 主人公を追う二人の刑事は、白人とアフリカ系とのコンビ。彼らもまた、何となく孤独に見えてくるのですが、彼らにはこの後、何が、できるのか。 |
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