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タイトル名 |
ランボー/最後の戦場 |
レビュワー |
onomichiさん |
点数 |
7点 |
投稿日時 |
2008-08-15 15:24:44 |
変更日時 |
2008-08-15 15:24:44 |
レビュー内容 |
機関銃を乱射し、狂ったように大量殺戮を行うラストシーンは現代版『ワイルドバンチ』だと言える。確かにその時ばかりはランボーがウォーレン・オーツに見えた。 『ムダに生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ』 そのセリフもまさにワイルドバンチ達の生き様、死に様そのものだ。しかし、何かが違う。無残かつ美しく散ったワイルドバンチ達と違う、即物的な殺戮、正統な狂気というべき幻想、その空虚さ、それがこの映画が訴える戦争のリアリティなのだろうか?
『ランボー』と言えば、第一作である。 1982年、僕が中学2年生の頃である。ランボーが一人で多数の警官隊に立ち向かう姿には興奮したし、崖から決死のダイブや森の中でのサバイバル生活、全てがエキサイティングだった。そして、ラストの独白。 所謂ベトナム帰還兵の悲劇。そこには善も悪もなく、ただ戦闘の記憶と呪縛だけがあった。それは決して単純な戦争ヒーローものではなかったのである。その映画自体を14歳の少年達が喝采したのだ。
『ランボー 最後の戦場』の殺戮シーンは確かにリアルである。そこには職人的とも言うべき、リアリティの追求があり、人が破壊されること、その細やかなシミュレートへの偏狂的なこだわりが感じられる。それは本来失われているものを浮かび上がらせ、僕らは殺戮そのもののリアリティを目の当たりにする。しかし、それはそれだけのことである。戦争とはそういった不条理な暴力であり、生死を超えた狂気そのものであるということを訴えるのも重要かもしれないが、それは何処まで行ってもただそれだけのことなのである。より本来的なのは言うまでもなくその由来である。もちろん、そんなものはこの映画に一切描かれない。
ランボーも第一作から26年経ち、すっかり中年になった。 ベトナム帰還兵の空虚、その自覚的な敗北感は既にない。決死の大量殺戮の後、故郷の牧場に帰るランボー。 この映画がまっとうな感じがしない、何とも言えない違和を感じさせるのは、いくつかの寄せ集めの要素があまりにも無自覚的に組み合わされているからだと思う。それはまさに、ゲーム的リアリティとでも言うべきフラットな現代性ではないか。それがこの映画の得体の知れなさの最大の要因であると僕は思う。結局のところ、殺戮のリアリティもデータベース化されたパーツでしかないと感じざるを得ないのだ。 |
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