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タイトル名 |
桐島、部活やめるってよ |
レビュワー |
onomichiさん |
点数 |
10点 |
投稿日時 |
2012-08-27 23:55:25 |
変更日時 |
2012-08-28 08:16:05 |
レビュー内容 |
いわゆるメタ映画であり、尚且つ、それ以上のものが感じられる映画。
桐島とはいったい何者なのか? 映画部の彼らはなぜゾンビに拘るのか? 野球部幽霊部員の彼は何故、最後に涙を流したのか? いくつかの事象を帰納的に反芻することで、この映画の見事なまでの構成が見えてくる。
映画の解釈については、その高い評価と共に、既にネット上で広まっている。 代表的なのが、不条理劇『ゴドーを待ちながら』(ゴドー(GOD)の不在をめぐる物語)を下敷きとしつつ、その変容としての桐島=キリスト=希望というメタファー。そしてその対立軸としてのゾンビ=虚無=絶望という図式である。桐島の不在にオタオタする多くの登場人物たちと、それを自明なものとして、ゾンビ映画に拘るオタクの映画部員たち。そういった構造でみれば、この映画はとても分かり易い。それは他の解釈を許さないほどに。但し、僕がこの映画に感銘するのは、そういった構造を超えたところに、実は彼らのアカルイミライが垣間見えたからである。
最後のシーン。 映画部の彼と野球部幽霊部員の彼が夕日をバックに対峙する。そこでの映画部の彼のセリフが僕らの胸にすごく響くのだ。彼は高校生にして、既に絶望を知っている。でも、それに負けない自分というものを持っている。周りをゾンビに囲まれたショッピングセンターの中で、彼はそれでも闘い生きていこうと決意する。それは何故か?彼は撮ることによって常に希望と繋がっているから。彼は絶望を知りつつ、同時に希望と繋がっている。桐島=キリスト=希望。 映画部の彼こそ、桐島と唯一繋がっていたことが最後に明らかとなる。彼こそがアカルイミライの細い道すじをただ一人しっかりと見据えていたのだ。野球部の彼は、そのことを理解し愕然とする。桐島に電話して繋がらないことで、自分がゾンビに喰われてしまった側であることを悟り、そして涙する。
なんて素晴らしいラストシーンだろう。僕らのミライも少しアカルイと思える。
この映画の冒頭の多視点による物語の反復。世界を本当に捉えようと思ったら、たとえやみくもであろうとも、その世界なるものを多くの視点で囲んでいくしかない。そこには桐島と同じように「不在」しかないかもしれないけど、その中空構造の周辺から、浮かんでくる様々思い、そのさざめき、その切実さを僕らは、それによってこそ目撃することができるのだ。 |
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