《改行表示》 4.森川信さんがおいちゃんを演じた最後の作品です。3人のおいちゃんそれぞれに味わいがあるのですが、森川信さんと渥美清さんが作り出す間は絶品でした。 特に喧嘩のシーンで「やい!寅!」と寅さんと同じ土俵でがっぷり四つに組んで喧嘩を繰り広げる。初代おいちゃんならではの味わいでした。また、寅さんに皮肉を言われ、「くぅ~~~!」と悔しさをあらわにする森川信さんの芝居も大好きでした。 以降日本中で再会を繰り返す旅の一座と一座の花形大空さゆりちゃん、諏訪先生と諏訪家の人々(ここも兄弟が揃えば揉め事になるなあ・・・)といったお馴染みの顔触れが揃っているのも嬉しい作品です。 諏訪先生がとらやを訪ねる。諏訪先生が孫を抱きかかえる。(志村喬さんの満男への「ばぁ~」が良かったなあ・・・。)さくらが歌う「母さんの歌」。(見るのが辛いほど素晴らしいシーンです)博の母への思い。最後に諏訪先生がさくらに託した息子博への思い。そしてマドンナと一人息子。いつにも増して「親と子」を感じる作品です。 【とらや】さん [DVD(邦画)] 8点(2011-11-18 20:32:28) (良:3票) |
3.酔っ払いを連れてきた寅が、さくらに唄を歌わせる。あの後の自責の念が募るあたり、いいなあ。唄のうまい身内を自慢したい軽い気持ちで呼び込んだことから、自分が妹に対して迷惑ものであると悟り、「俺はこの店の空気と違うんだ」と身に沁みてしまう。内と外の切り替えがうまく出来ない人なんだな、基本的に彼は。そういうモチーフはシリーズを通してしばしば現われるが、このエピソードなんかはとりわけ哀切。あとヒロシの母親の死が重いモチーフとして本作の中心にあるが、寅が焼香に現われる場や、さくらが義父宅に電話すると寅が出るあたりで笑いに代えている。池内淳子が経済的にきつい目にあっても、仁侠映画のように殴り込みにいけない寅であった。このシリーズは東映の仁侠映画のパロディとして始まったものだったが、社会悪に対する怒りを行動にすることの無力をしみじみ知らされた70年代の雰囲気を記録してもいた。 【なんのかんの】さん [映画館(邦画)] 8点(2014-01-24 09:39:26) (良:1票) |
2.シリーズ第8作。博の父(志村喬)が寅さんにリンドウの話をするシーンもよかったけど、博の母の葬式のあとみんなで集まって故人について話をしているシーンで「母さんは不幸せだったんだ。」と言い出す博につい感情移入してしまった。そしてこれが最後の作品となった森川信のおいちゃんだが、作品を見るかぎりいつも通りに元気においちゃんを演じていてこのほんの数ヵ月後に鬼籍に入ってしまったことが信じられない。シリーズ歴代のおいちゃんの中ではこの「森川おいちゃん」がいちばん好きだ。それだけに早くに亡くなったことが残念で仕方ない。もっともっと彼の演じるおいちゃん、見たかったなあ。 【イニシャルK】さん [地上波(邦画)] 8点(2006-04-15 14:09:16) (良:1票) |
1.《ネタバレ》 作品の基底に連なる「母」のモチーフ。さくらの歌う「かあさんの歌」、博の母の死、そして寅さんが惚れる今回のマドンナも子持ちの「母」。そこから浮かび上がるテーマは、「人生の重み」であり「幸せとは何か」、ということ(ここで寅さん自身の母親について触れられないのは、さすがにそこまでやるとあまりに見え透いているのと、蝶々さんのイメージではちょっとテーマに対し違和感があるから?)。母の人生は不幸だったと言う博。臨終を看取った兄は、母は満足して世を去ったと言うが、博は、そんな人生に満足すること自体が可哀想だと訴える。確かに、昔からよく世に言う、「幸福とは自分の不幸に気付いていない状態である」と。ではその人は実際は幸福だったのか不幸だったのか?ナントモ言えない問題であり、博の訴えは一理あるのも確かだし、自己矛盾しているのも確か。結局、幸せとは、絶対的にそこに「ある」ものではなく、人それぞれが「見つける」もの、あるいは「受け止める」もの、なのでしょう。ふと、モーパッサン「女の一生」の最後のあの有名なセリフ、あれを思い出し、あれこそが人生の幸不幸を的確に表現したセリフだったんじゃないか、とも思えてくる・・・。今回の寅さんは、明確な失恋を味わうわけではないけれども、より厳しい「人生の重み」を目の前に突きつけられ、嵐の夜、静かに柴又を去っていく。その後姿が哀しい。人生って、必ず、いいこともあれば、わるいこともあるのだよ。 【鱗歌】さん [CS・衛星(邦画)] 8点(2006-03-26 23:11:26) (良:1票) |