5.この映画は決して安易なカタルシスを与えてくれはしない。それ故にハリウッド映画の与える安易なカタルシスに慣れきってしまった人には到底受け容れられない映画だろう。しかし、私にとってはそれこそがこの映画を何度も繰り替えし見てしまう理由だ。他人に押しつけられる最大公約数的な結論(エンディング)なんてまっぴらだ。結論は自分の頭で考え出し、それに対して責任を持つものだ。だからこの映画がエンディングを放棄してしまっているのは制作者の誠意の表明なのだ。私はそれを支持したい。あと、この映画を傑作たらしめているのは各カットの構図の完璧さだ。しっかりとした絵になっている。いかにスタッフが時間と金と頭を使ったかの証拠だと思う。特にベトコン村を急襲するシーンの構図は神憑かり的な完璧さだ。この映画はあくまでベトナム戦争を題材にした、抽象的戦争映画なので、ベトナム戦争に関する表現上のリアリティの無さはあまり問題じゃ無いと思う。 【トマシーノ】さん 10点(2004-11-04 16:47:03) (良:2票) |
《改行表示》 4.カーツ大佐はベトナムでの闘いで自分の中(アメリカ)に潜む偽善と嘘に気付いたのではないだろうか。 ベトナムの子供に予防注射をしたが、その子供達はベトナムの兵士により腕を切り落とされたと・・・。彼ら(ベトナム人)には恐怖は存在しない。狂気そのものなのだ。 偽善や自らの社会的地位と確立、或いは浅はかな思い上がりで戦場に来たアメリカ人兵士達とは“殺し合う”という意識が全く異なっていると痛感したのだろう。カーツの言う「恐怖を友にしなければいけない」とはそのことを指していると感じる。 人間の内にある暴力性を訴えかける戦争映画は腐るほど有るが、この作品はそんな単純なモノではない。闘うために必要な“恐怖と狂気をコントロールすることが出来る道義心”或いは“自由に対する欲望と精神的強さ”が自らに有るのかどうか、それをカーツは身をもって経験したのではないか。ベトナム兵士はそれを持ち合わせていた。しかしカーツ(アメリカ)は己の中にある恐怖に屈し、精神は分裂した。つまり敗北したのである。闇の心すなわち恐怖である。 この作品はベトナムが舞台では有るが、ソマリアやイラク等の中東におけるアメリカの関与にも十分に連動した内容であり、それに対する批判と警告を指したコッポラによる独自の考えである。偽善と虚による闘争心と本能を題材とした哲学なのだと思う。 【おはようジングル】さん [DVD(字幕)] 10点(2006-01-29 09:58:24) (良:1票) |
3.これまで繰り返し語られてきたことだが、この映画は、悪夢の如き戦争を描いたのではなく、戦争に纏わる悪夢そのものを描いているのである。まず、冒頭。密林を一瞬に炎と化すナパーム弾、「ワルキューレの騎行」の旋律とともに隊列を組むヘリコプターの一群。破壊の象徴としての圧倒的な重量感と硬質性、その神々しさ。戦争という生の破壊的状況において、それは荒ぶる女神の如き美しいものとなる。中盤。ボートを駆って河の上流を目指す一隊に訪れるベトナム戦争という義なき闘争への疑念。剥ぎ取られていく人間性。河の上流は、明らかに人を正義から狂気へと導く思念的道筋である。終盤。此の世の境界というべきド・ラン橋を超えた辺りより、映画には常に不穏な音楽が流れ続ける。ボートは遂に彼岸とも言うべきカーツ王国に辿りつく。カーツを神と崇める天国。それはカーツの思念的理想を生み出した地獄でもある。ウィラードによるカーツ殺しは、文化人類学的に言う「王殺し」であろうか。これもカーツの思念的達成である。<特別編では、カーツを殺したウィラードは、鬼が島から帰還する桃太郎の如く、村上春樹の「羊をめぐる冒険」の主人公の如く、現世に戻る。> ここまでストーリーを俯瞰してきたが、改めてこの物語の骨子を言えば、それは「狂気のその先にあるもの、その一線を越えることへの抑えがたい欲望と恐怖」である。そしてその答えは、Nothingなのである。この物語はそういう悪夢なのだ。そう、これはコッポラの悪夢。彼が芸術的信念に基づいて辿った悪夢の先、現代の黙示録として名づけた物語の終末はNowhereであり、Nothingなのである。彼がただ善悪を超えた美しさ、心象の完全性のその先に描いた光景、それは物語として如何に脆く儚いものであったろうか。Nothing。その恐怖。そんなものは物語として、映像として描ききれるものではないのだ。その到達と挫折が混沌としたラストシーン。彼の作品に対する自身の評価は、どうだったのだろうか。それは、彼が80年代以降に辿った道筋によって示されている。しかし、映画界でこの領域にまで足を踏み入れた作品は数少ない。そして僕にとっても忘れがたい悪夢としてこの映画は脳裏に刻まれることになった。大傑作。<全くもって個人的に。。> 【onomichi】さん 10点(2004-03-28 21:45:54) (良:1票) |
《改行表示》 2.もう何回見たことか。愛してると言ってもいいくらいの映画です。 なにより映像が美しいし,音楽の使い方も素晴らしい。 深読みするのは勝手だけど,ストーリーについて言えばこれはどう見てもただ単に破綻してるだけでしょう。従って,ストーリーには関心を持たないのがこの映画を愛するコツではないかと。 |
1.傑作。この映画を見終わった直後の率直な感想はこの一言に尽きた。この映画を戦争映画と形容する人がいるが、僕はそうは思わない。ここで描かれているのは哲学だ。かの有名なあのシーン、ワルキューレ騎行とともにヘリでベトナムの村を爆撃するシーンですらただの飾りにしか見えないほど、この映画で描かれている哲学には人の心を打つものがある。主人公のウィラード大尉はベトナムのとある河をさかのぼっていく中でさまざまな戦争の絶望感、退廃を目の当たりにし、そこからこの戦争の背景にある軍の上層部や人間社会全体の腐敗を敏感に感じ取る。今まで信じてきた価値観が崩れ、世界が混沌の色を濃くする。(この点は映画の鑑賞者も同じ気分を味わったことだろう。)そして、彼が目指す先にいるのはカーツ大佐。そう、彼こそ腐敗した軍の上層部や人間社会から背を向け、自らの意思で己の理想を貫いた人物。ウィラードはそんな彼の哲学に心を引かれ、彼に感化される。軍や社会の呪縛から逃れ自らも彼のごとく自由な意思で生きよう、ウィラードはそう思ったに違いない。ウィラードは軍の命令としてではなく、自らの意思からカーツを殺すことを決断し、実行する。このときウィラードはカーツと同じ自由の境地に達っした。(だからこそカーツを殺したウィーラードに原住民はひれ伏した。)総括すると、この映画で描かれているのは人が腐敗した社会から抜け出し、精神的自由を勝ち取るまでの過程であり、その自由な行動とは恐怖(ラストで繰り返されるセリフ)を伴うものである、ということだと思う。この哲学はベトナム戦争という退廃的な舞台でこそ映えるものだ。 |