《改行表示》 5.上映が終わり手洗いに行った。鏡にうつる自分の顔をまじまじと見て、「老けたな」と思った。 そりゃそうだ。三十路を越え、結婚をし子供までいるんだから、ついさっきまでスクリーンいっぱいに映し出されていた高校生たちの“若さ”が、今の自分にあるわけはない。 あるわけないのだけれど、入り乱れる彼らの思いは、もはやうすぼんやりとし始めている記憶の甦りと共に、自分の感情の中に入り込み身につまされた。 きっと誰しもが、この映画に映り込む高校生たちの“誰か”と同じ“立ち位置”で、生活をしていたはずだ。 それが誰であったかなんて事は重要ではない。重要なことは、誰しもが「高校」という奇妙な「階級社会」においていつの間にか与えられた立ち位置で、もがきながら生きたということであろう。 高校生は大変だ。時に過酷なまでに。 それに対して一部の大人は、「実社会の荒波の厳しさ」を安直に強調するのかもしれない。 しかし、そんなものは比較の対象にはならない。 限られた経験値、限られた世界の中で、盲目的に自己を顕示し、また抑え込む。それをひたすらに繰り返し、葛藤を繰り返す。 それは先が見えない暗がりを、時に孤独に、時に手を取り合い歩んでいくようでもある。 でも、だからこそそこには、何にも代え難い輝きが存在する。 葛藤の果てに、「こいつら全部食い殺せ!」と高らかに言い放った映画オタクの主人公は、結果として何かを得たわけではない。 しかし、何も選び取れずフラフラと自分の成すべきことを定めきれずにいた幽霊野球部員は、逆光を背にした映画オタクが眩しくて直視できなかった。 それは、高校特有の歪なヒエラルキーが生み出した「光」だったのか「影」だったのか。 人それぞれ、誰に感情を移入するかで、この青春映画の「感触」は大いに異なるのだろうと思う。 面白いと思えるかどうかも、実際人それぞれだろうし、それでいいと思う。 ただ、きっと多くの人が、この映画を観て、自らのあの“限られた世界”で過ごした日々のことを思うだろう。 それだけで、この作品は青春映画として明らかな傑作と言える。 【鉄腕麗人】さん [映画館(邦画)] 10点(2012-08-26 00:37:16) (良:5票) |
《改行表示》 4.《ネタバレ》 神木隆之介クン扮する映画部の高校生と仲間たちは、ジョージ・A・ロメロ(!)のような「ゾンビ映画」を撮ろうとしている。そして撮影機材は、今どき珍しい「シングル8」の8ミリカメラ。その時、ぼくたちはただちにもう1本の「ハリウッド映画」を想起しないだろうか。そう、スピルバーグが製作したあの『スーパーエイト』でも、少年たちは「スーパー8」の8ミリカメラで、ロメロのような「ゾンビ映画」を撮ろうとしていたのだった。 それは、それぞれの作品にとって取るに足りない些細なことかもしれない。けれど、スクールカースト上位の生徒たちに端から無視され、せいぜい嘲笑の対象でしかない彼ら最下層のオタク映画部員にとって、「ゾンビ」とは自分たち自身の鏡像なのだ。そう、片田舎で鬱屈した日々をおくる『スーパーエイト』の、ブルーカラーな少年少女たちがまさにそうだったように(だから主人公の少年は、エイリアンと「理解」し合えたのだった)。 そしてロメロのゾンビ映画が、人間たちの「生存闘争劇」からついに人間とゾンビの「階級闘争劇」へと至ったように、映画『桐島』もまた学校屋上における「ゾンビたちの反乱(!)」でクライマックスを迎える。もちろんそれで、学校内の何が変わるというワケでもない。明日からも映画部員たちは、相変わらず無視され嘲笑されるだけだろう。しかし、中心人物のひとりである野球部のイケメンだけは、神木クンにカメラを向けられ、「俺はいいんだよ。俺はいいって」と涙ぐむ時、確実に知ったはずだ。自分(たち)の方こそが彼らに“負けた”ことを。 高校生たちのリアルな日常と心情を描いた群像劇のようで、ここにあるのは各階層[カースト]に位置する者たちの、その「位相」ばかりだ。ある階層とある階層との“あいだ”にある決定的なずれと断絶。それが、しだいに動揺し衝突することのなかに産まれるダイナミズムこそ、この映画を、悲劇でも喜劇でもない真に「劇的」なるものにしている。彼らがどんな「人間」かじゃなく、彼らの「立ち位置=場所」が“不在の主人公”を前に揺らぎ崩れていくさまと、逆に“揺るがない”ことの強さと輝きを放ち出すオタク映画少年たちの姿を鮮明にしていくのだ。その光景は、奇妙で、残酷で、滑稽で、けれど何と感動的なことか。 ・・・そう、あの野球部イケメンの涙にナミダしない奴らなど、ゾンビに喰われてしまえ! 【やましんの巻】さん [映画館(邦画)] 10点(2012-08-24 11:22:42) (良:5票) |
《改行表示》 3.《ネタバレ》 「僕たちに青春映画は撮れない」中盤付近で眼鏡君は言う。そこには重層的な意思がある。まず「この映画は青春映画ではない」という意思表示。日本映画界が量産する絵空事な“自称青春映画”に対する憤りの念とそれらに対する嘘っぱちだ!という反感精神。そこと絡んでくるのは映画部顧問の「半径1m以内の話を作れ」という台詞。映画部にとって上記でも述べた意思と共にゾンビ映画こそ普遍だ、という意思がある。「ナイト・オブ~」は、ゾンビにより窮地に立たされた人々の負の願望から炙り出されてゆく人間の“本性”を描き出しており、これは絶対的にいつの時代も変わらない普遍的なものに昇華している。“ゾンビ”の定義は「腐った死体のまま動き回る人間」で、喰らう為に生きる存在だが、ぼくらは本来、生きる為に喰らう存在。 「桐島」は、彼を必要とする人々にとって現状の位置を高め、維持する「ステータス」に過ぎない。そんな彼らと対比するように登場する映画部を始めとする者達は「ステータス」に関心が無い。それぞれの金曜日を通し、それぞれの目線が丁寧に描かれる。 クライマックスで、彼らの後ろにワーグナーのローエングリンが流れる。想いが届かぬ事を理解しながらも、むしろ断ち切るため、痛みの中へ身を投げた彼女は演奏する。彼女の想いだけでなくローエングリンは、屋上に集う者たちの姿も重層的に描き、そして寄り添う。「桐島」に吸い寄せられた者達が「桐島」に関心のないゾンビ達によって喰い殺されていくカタルシス。屋上でむき出しの“本性”が炙り出されていく。ぼくらがあの頃執拗に隠していた“ださい”姿。前田が未来に明確なビジョンを持っているだろうとヒロキは思っていただろうが、前田の言葉は意表をつかれる。これは現代を象徴する意識をも具現化する。レンズ(非直接的な物事のメタファー)を通し見た気になり、決めつけ、思い込んでいる。好きだけど今しか出来ない、痛みを彼は知っていた。本作は、進路を決め、大人にならなければならない子どもの尊い狭間の物語でもある。 (追記)カーストは描いているけど、映画部、吹奏楽部、野球部キャプテンらはその内側にすらいない。いると思っているのは内側にいる者。メタ構造的にも、カーストに捕われているから重視するのだ。 【ボビー】さん [映画館(邦画)] 10点(2012-08-30 21:26:40) (良:3票) |
2.《ネタバレ》 この映画の登場人物の中では、自分は武文くん(スクリーム3を最後まで観ちゃった人)に一番近いかもしれないw。前田くんのように行動力があるわけでもないし、若干 口だけ番長(しかも映画部という小さなコミュの中だけ)な感じが骨身にしみるw。彼が何か行動する度、話す度に、一挙手一投足に至るまで思わずクスクス笑ってしまうのだけれど、それがだんだん笑えなくなってくる。映画館で起こる笑い声が、スクリーンを跳ね返り自分に向かって突き刺さってくるんですね。結局映画部は「地味で目立たない最下層のやつら」だと観客自身が思っていることを見透かされているような・・・。これは武文くんに限らずこの映画の登場人物すべてに当てはまることだろうと思います(形はそれぞれ違うけれど)。一つ癪なのは、「この映画が好きなんです!」と職場で言おうものなら「あ、映画部の奴らにやっぱ感情移入しちゃうんでショww」てな具合に笑われるのが目にみえるということですかね。こんがらがるくらい入れ子構造な映画に思えてきて混乱してきました。好きなものは素直に好きでいたいなあ。 【ゆうろう】さん [映画館(邦画)] 10点(2012-11-13 00:50:38) (良:1票) |
《改行表示》 1.《ネタバレ》 いわゆるメタ映画であり、尚且つ、それ以上のものが感じられる映画。 桐島とはいったい何者なのか? 映画部の彼らはなぜゾンビに拘るのか? 野球部幽霊部員の彼は何故、最後に涙を流したのか? いくつかの事象を帰納的に反芻することで、この映画の見事なまでの構成が見えてくる。 映画の解釈については、その高い評価と共に、既にネット上で広まっている。 代表的なのが、不条理劇『ゴドーを待ちながら』(ゴドー(GOD)の不在をめぐる物語)を下敷きとしつつ、その変容としての桐島=キリスト=希望というメタファー。そしてその対立軸としてのゾンビ=虚無=絶望という図式である。桐島の不在にオタオタする多くの登場人物たちと、それを自明なものとして、ゾンビ映画に拘るオタクの映画部員たち。そういった構造でみれば、この映画はとても分かり易い。それは他の解釈を許さないほどに。但し、僕がこの映画に感銘するのは、そういった構造を超えたところに、実は彼らのアカルイミライが垣間見えたからである。 最後のシーン。 映画部の彼と野球部幽霊部員の彼が夕日をバックに対峙する。そこでの映画部の彼のセリフが僕らの胸にすごく響くのだ。彼は高校生にして、既に絶望を知っている。でも、それに負けない自分というものを持っている。周りをゾンビに囲まれたショッピングセンターの中で、彼はそれでも闘い生きていこうと決意する。それは何故か?彼は撮ることによって常に希望と繋がっているから。彼は絶望を知りつつ、同時に希望と繋がっている。桐島=キリスト=希望。 映画部の彼こそ、桐島と唯一繋がっていたことが最後に明らかとなる。彼こそがアカルイミライの細い道すじをただ一人しっかりと見据えていたのだ。野球部の彼は、そのことを理解し愕然とする。桐島に電話して繋がらないことで、自分がゾンビに喰われてしまった側であることを悟り、そして涙する。 なんて素晴らしいラストシーンだろう。僕らのミライも少しアカルイと思える。 この映画の冒頭の多視点による物語の反復。世界を本当に捉えようと思ったら、たとえやみくもであろうとも、その世界なるものを多くの視点で囲んでいくしかない。そこには桐島と同じように「不在」しかないかもしれないけど、その中空構造の周辺から、浮かんでくる様々思い、そのさざめき、その切実さを僕らは、それによってこそ目撃することができるのだ。 【onomichi】さん [映画館(邦画)] 10点(2012-08-27 23:55:25) (良:1票) |