《改行表示》 7.《ネタバレ》 みさえや、映画を見る我々は、ロボとーちゃんじゃなく、生とーちゃんを野原ひろしとみなした。あの、子供たちを救った後の庭での夫婦の美しいシーンがあるが、あのときのみさえも「あんなことできるのは、野原ひろししかいないわ。あなたはロボットでも、野原ひろしよ。」みたいなことを言った。これはつまり、「ロボとーちゃん≠野原ひろし」であることをみさえは思っていることになる。 だから、ロボとーちゃんが切ないわけだ。 しかし、しんのすけにとってはそうではない。ロボとーちゃんも、生とーちゃんも、両方とも自分にとっての父だと受け入れたのはしんのすけただ一人だ。 ってことはですよ、この映画は、しんのすけにとっては、「父の死」の物語なのである。絶対に野原家は死ななかった。この鉄則が今回、ついに(疑似的に)崩された。 正しいクレヨンしんちゃん映画には、すべて、しんのすけの成長が描かれている。今回もたくましいしんのすけの姿がきちんとおさめられていた。その姿がなんと、死にゆくロボとーちゃんのノイズ交じりの視界からのものだった。 「おめえのとーちゃん、強いだろ。」 このせりふには二つの意味がある。一つは、腕相撲に本気で臨んで(僕は生とーちゃんが上着を脱いだところでポタポタ泣いた)ロボの腕を押し倒した生とーちゃんの強さ、もう一つは、腕相撲に「負けてあげる」という父の役割をきちんとふるまったロボとーちゃんの強さ。 これは、ロボが正真正銘のしんのすけの父だからこそ出来たことなのだ。野原ひろしという男だからこそ。 確かに映画を観る我々にしてみれば、ロボとーちゃんはダサい取り換えの効く鉄くずに過ぎない(同一性を保てないので野原ひろしではない)。けれどもあえて一歩引いて、しんのすけが見ているように、ロボとーちゃんも野原ひろしと等しいと受け入れてこの映画を観れば、ああ、歴史に残る名作となれるだろう。 僕の近くの席でみていた少年が、上映中にも関わらず大声でこんなこと言った。「もう壊れてるから本当の力が出せなかったんだ。だから負けたんだよ。」きっと隣で観ていた親に教えてあげようとしたのだろう。少年よ、君が父になったとき、もういちどこの映画を観なさい。なぜロボとーちゃんが腕相撲に敗北したか、分かるからな。 【no_the_war】さん [映画館(邦画)] 9点(2014-04-20 23:44:55) (良:3票) |
《改行表示》 6.私が好きだったシーンは、映画中盤の「拷問」シーン。このシーンにはハッとさせられました。「これで拷問してやる!」という感じで「ある拷問道具」がスクリーンに大写しになるんですが、それは「えっ、これが?」と拍子抜けしちゃうようなもの。最初はギャグシーンだと思っていました。クレしん映画では「拷問ギャグシーン」がよくあるので、この場面もその一つだろうと思っていたわけです。 しかし、実際に拷問がスタートすると、その考えは180度変わってしまいました。他の者からすれば大したことのない物でも、当人のしんちゃんからすれば、もっとも残酷な拷問だったわけです。しかも親から見れば「子供のためを思ってついついやってしまう行為」。 これは意外とショッキングなシーンです。映画に暴力シーンは数あれど、殴ったり流血を見せたりせずにここまでの暴力描写ができるのか・・・と驚き。しかも「クレヨンしんちゃん」で!このシーンは親視点で見ても子供視点でみても凄いシーンなのではないでしょうか。その後の拷問克服シーンも、感動必至。オススメです! 【ゆうろう】さん [映画館(邦画)] 8点(2014-05-09 22:49:23) (良:2票) |
5.《ネタバレ》 五木ひろしサイドの許可と、特に今旬なタレントでもないコロッケの奇天烈キャスティングが生んだ、巨大五木ひろしロボはシリーズ最強クラスのシュールギャグでした。子供の観客は勿論、大人の観客も完全に置いてけぼり。こぶしビームを浴びて瞬時に五木顔に変わるキャラクターたち。ホントに、いったい、誰向けのギャグなんだと。さらにちちゆれ。いやーこのワルノリ大好きです。こんなオフザケに『オトナ』『戦国』に匹敵する感動がプラスされるのですから、これほど贅沢な映画もないでしょう。きゃりーぱみゅぱみゅのエンディングテーマもストーリーにマッチしていて、ほのぼのしました。(以下映画とはあまり関係ない、自分語りの感想です。正しい映画批評は優秀な他のレビュワー様にお任せしますので、お暇な方のみお付き合いいただけたら幸いです) 私は長女が生まれた時に“これで安心して死ねる”と思いました。この世に自分の分身を残した安堵感からそのように感じたのです。時は流れ、今や娘3人の父親。死ねるどころか、バリバリ稼いで子供たちにご飯を食べさせなくてはいけません。それに一分一秒でも長く娘たちの姿を観ていたいと願うようになりました。お気楽に死んでいる場合じゃありません(苦笑)。そこでラストの腕相撲。かつての私がロボとーちゃん、そして今の私がひろしに重なりました。どちらが強いかは言わずもがな。込み上げてくるものが止められませんでした。劇場の暗闇に紛れて、こっそりポロポロ泣きました。娘たちよ、おとうさんは頑張るからな。そう改めて誓ったのでした。だからお前たちを置いて、時々ももクロちゃん出張に出掛けても許しておくれ。子供向け映画なのにお父さん一人で劇場鑑賞してしまった事も許しておくれ。いつもは旧作になるまで我慢だけど、今回は新作のうちに借りてくるから。 【目隠シスト】さん [映画館(邦画)] 9点(2014-04-27 19:59:05) (良:2票) |
《改行表示》 4.《ネタバレ》 私は『オトナ帝国』を何回見てもボロボロ泣くが、へそ曲がりなので「クレしん映画=感動」とはみなしていない。しかし世間では、「泣けるクレしん映画」はもはやブランド化されていて、誰もがそれを期待している。 今回の『ロボとーちゃん』は、そんな風潮に対する製作者側の照れ隠しのようなものを感じた。後半の五木ひろしロボのくだりは、「感動作の面構えにせず、あくまでギャグで見せたい」という理由のみで付加されているように思える。なぜなら黒幕の「古き家父長制の復古」という野望と噛み合っていなく、ストーリー上の必然性がまったくないからだ(ギャグ単体としては個人的には笑えた)。 国民的アニメ映画の制作体制というのは、ポーカーで言えば「それなりの役が約束されている」ようなもの。ただし観客側は中途半端な役が見たいのではなく、きちっと5枚全体で「ストレート」や「フラッシュ」を見せてもらいたいのだ(すべての要素が完璧に絡み合った『オトナ帝国』は間違いなく「ロイヤルストレートフラッシュ」)。 その点、『ロボとーちゃん』は「泣けるペア+笑えるペアのツーペア」という印象。プロットに組み込めていない「余分な1枚」(黒岩署長がナルシストである意味・段々原の存在意義…など)も内包してしまっている。 でも、それぞれのペアがエース級なので満足感がある。7点以上をつけるには値すると思う。 【乱泥】さん [インターネット(邦画)] 7点(2021-02-21 12:21:04) (良:1票) |
《改行表示》 3.《ネタバレ》 記憶上はオリジナルと同一のクローン人間に感情移入させ、最後に消失することで喪失感を与える脚本だった。 途中まではクローンじゃなくて改造されただけだと思っていたので素直に驚いたのと 最後にクローンが死ぬときは感動した。 感動(=喪失感)を与えるために、視聴者の心の中にクローンの存在感を大きくする必要があり クローン変化後に家族が戸惑い、受け入れ、家族に尽くすまでの描写に時間を多く費やしていた。 (家族に認められるという欲求以外の)自分の利益を顧みず、子供の危機を救い、家事をする献身性に みさえが心を打たれたが、同時に視聴者も心を打たれたと言える(みさえは視聴者に近い立ち回りだろうか) 喪失感を与えるプロットが十分に練られている一方で、黒幕の「父親の復権を目論む」というシナリオがかなりおざなりになっており 社会に参画する組織として怪し過ぎたり、事故を起こしたロボット施設への大人からの言及がなかったり 公園で父親と主婦が対立する問題も、最終的に会釈をして済ませていたが和解やお互いの内省を描写する演出が欠けていた。 警視が黒幕で頑固親父ロボットを操るというネタは裏をついていたが 警視の美への拘りと家庭で蔑ろにされたトラウマの関連性が弱かったし 何よりこの問題に野原家もロボとーちゃんも関与せず、黒幕への回答も「かっこ悪い」とピーマンを進んで食べることで済ませていた。 このテーマに本質的に言及するなら、父親側の代弁者と母親側の代弁者を用意して、歩み寄りをする必要があり それはたとえ子供相手の作品であったとしても、難解な表現にならないよう気を付けなければならないというだけで 両側の代弁者が必要という本質は変わらないはず。 たとえば、サブキャラの段々腹(新米女性警官)に、公園で父親を退ける主婦側の役割を持たせて 当初はやや傲慢な主張をさせながらも主婦側の傲慢さや父親の頑張りに気づき内省する機会を与え 最終決戦でその経験を踏まえた歩み寄った主張をして相手を説得することで「父親の復権を目論む」というテーマを前面に出せる。 さらに、ロボとーちゃんの働きに感化され父親側の頑張りに気付くというシナリオにすることで 野原家やロボとーちゃんとテーマの紐付きが強固なものになる 父親復権を目論む黒幕と父親を蔑ろにする段々腹 →黒幕側の復権計画の発端として家族の繋がりを絶つためにひろしをロボ化 →ロボになっても家族に尽くしたいという家族愛の顕在化として、ロボとーちゃんの家事への励み・救出 →ロボとーちゃんを通じて父親には深い苦労と家族愛があり尊重しなければならないと内省し学ぶ段々腹 →その学びを通じて黒幕を説き伏せる段々腹と、自らの計画が発端となり巡り巡って反発する形で帰ってきた黒幕 もっと踏み込むと、敵幹部の女は「結婚できない嫉妬から子連れ主婦を憎悪いている」する設定にして段々腹と対立するが ひまわりを守るみえさの姿を通じて反省し段々腹と和解、最終的に黒幕を説得する側に回ると話が収束するし野原家とテーマの関わりが強くできると思った。 問題は97分に収まるかという点と子供も理解できる表現にできるかだが、不可能ではないはず。 子供向けとして笑いを取る場面は数多くあり、 しんのすけが我慢してピーマンを食べるという描写により教育教材的側面を兼ねてた点は良い。 【Donatello】さん [映画館(邦画)] 7点(2017-07-23 10:37:43) (良:1票) |
《改行表示》 2.《ネタバレ》 ひろしがロボットになるって聞いた時からずっと楽しみにしてました。ロボとーちゃんひろしが家族の為に大活躍し、悪を倒す話かと思っていたらとんでもなかった。ただかっこ良いだけでなく、生身の人間ひろしとロボットにされたひろしが一緒の画面の中で戦う。掛け合いがあるだなんて思わなかったから余計に泣けてきた。しかも、ロボットになったのは人間ひろしの記憶だけをコピーしたコピーロボットて設定が凄く泣ける。しんちゃんにとってはどちらのひろしも父ちゃんなのであり、だからこそ純粋にコピーロボットの父ちゃんとも同じように接する事が出来るのだ。それはみさえにしても同じ。最初は拒否していたロボットのひろしともしんちゃん同様に接する。後半のしんちゃんが大嫌いなピーマンを全部食べる場面でのしんちゃんの台詞やら二人のひろしの腕相撲の後のしんちゃんとひろしの台詞やら泣けて泣けて仕方なかった。そしてただ泣けるだけでなく、父ゆれ同盟のネーミングセンスの馬鹿馬鹿しさに加え、チクビームやらロケットミサイル(マジンガーZかい)やら懐かしいネタ満載で大人も笑える感動作品になってて大満足。まだまだ言いたい事が沢山あって父ゆれ同盟に参加した沢山の父親達の描き方が共感出来る描かれ方になってるのも良い。世の中のお父さん方に元気を与える事間違いなしです。来年も勿論、映画館で見るよ。しんちゃんを映画館で見るのは私にとっては春の大きなイベントの一つです。 しんちゃんを見て毎回感じる事の一つに世の中、皆、野原一家みたいな家族だけだと犯罪なんか起きないと本気で思います。 【青観】さん [映画館(邦画)] 9点(2014-04-22 19:43:13) (良:1票) |
1.《ネタバレ》 ポスターから今年は大人泣きできそうな予感有だったので期待して初日に鑑賞。作画も非常に良く、前半は子供の笑いも取れており、期待は高まるも…ロボとーちゃんの真実(人間改造ではなく、100%精神コピー存在)が発覚してから、PKディック的なアイデンティティ不安で感情移入先を一気に喪失。泣けない、泣けないよ。そういう話なら、人間とーちゃん(ひろし)の登場がもっと終盤近くで、ロボとーちゃんがロボとしての意識もありつつ自爆特攻ラストならと勝手にに妄想してやっとちょっと泣。 【wetb】さん [映画館(邦画)] 6点(2014-04-20 11:14:28) (良:1票) |