《改行表示》 5.「差別」この人間社会における普遍のテーマに対して、真っ向から取り組み、差別の構図に肉薄した、骨太な社会派映画である。私の心に深く残っている作品だ。 「差別的な行為を傍観することはそれに荷担したことになる」本作の中でグレゴリー・ペック演じるフィルは言う。 至極尤もで反論の余地などない。 しかし、このような「正義」を振りかざすことは、また次の争いや差別の種になるということも、一方で悲しい現実であるということは言えないだろうか。争いは常に正義と正義のぶつかり合いである。 「差別」の原因・背景については掘り下げることがなかったという点もやや残念だ。 とはいえ、先述したように、決して浅はかなものにはなっていない。 この難しいテーマを、極めて真面目に誠意をもって取り組んだ本作を、私は称えたいと思う。 翻って、この素晴らしい作品を観て、カザンの生涯を思うとき、あらためて思うのだった。「正義とは自分の良心にこそ、突きつけるものだ」と。 【poppo】さん 8点(2004-04-20 16:59:10) (良:2票) |
4.反ユダヤ主義に関する連載を掲載するにあたり、ジャーナリストである主人公のグレゴリー・ペックがユダヤ人になりすまし、その苦悩を自ら経験することによって差別がどこに存在するのかと言うことを暴いて行く非常にストレートなコチコチの社会派ドラマ。この映画の肝はグレゴリー・ペックではなく、その婚約者の女性にある。つまり、積極的に差別をしていない自分には罪がない、自分はリベラルだと思っている私のような人間である。「沈黙していると言うことは現状を認めていることだ」と言うことをこの映画で教えられた。これは何も差別問題に限ったことではない。例えば選挙。或いは戦争。「自分ひとりが言ったところで・・」と沈黙したなら後から文句言う資格なんて無い。自分も同罪なのだ。 【黒猫クロマティ】さん 7点(2003-03-06 11:22:54) (良:2票) |
3.40年代後半がひしひしと匂い立つ。アメリカとしては戦勝後の高揚、アメリカの正義の確認。ユダヤ人にとってはアウシュビッツの被害記憶がまだ生々しく、シオニズム運動の加速からイスラエル建国への高揚(この年にパレスチナの分割を国連が決議し、翌年独立)。と1947年に生まれるべくして生まれたフィルムかもしれない。その年の限界も当然あり、ホテルの前に立ち止まっただけで排斥されていただろう黒人はまだ視野に入ってなく、一人も登場しない。「見て見ぬふり」どころか「見えている」ことにも気づいていない(さらに海の遠くのパレスチナ人も)。また主人公をユダヤ人ではないWASPに設定してあるところも、絶妙の趣向のようでいて隔靴掻痒の感もあり、「自分たちの問題と捉えてほしかったからだ」という言い訳を用意しているだろうが、多くの観客であるWASPがユダヤ人に説教されることへの心理的抵抗を配慮したからではないか(こういうふうに異教徒であるべき主人公が強引にWASPに設定されるのは、最近の『アバター』にまで続く)。そういう40年代のアメリカの良心とその限界を知ることができる貴重な作品である、しかし映画としては面白くない。キャシーが「お説教は聞き飽きた」と怒るところで唯一ドラマとしてワクワクしかけるのだが、深くえぐるまでには至らず、けっきょくG・ペックの正義に飲み込まれていく。ペックが言ってることは実に正論で、そうやって少しずつ社会は良くなっていくのだろうし、こういう主張の映画が作られるアメリカの社会を尊敬はするが、贅沢を言うなら映画に期待するのは、演説よりもその正論を阻んでいるものの解析のほうなんだ。それは「正義を行なう勇気の欠如」だけで片づけられるほど簡単なものだろうか。それとあと一つ、アメリカ映画における母親の強さには独特の芯のようなものがあるなあ。開拓時代の「一家を守った母」の記憶にまで通じているのか。 【なんのかんの】さん [CS・衛星(字幕)] 6点(2011-09-12 09:55:20) (良:1票) |
2.ハリウッドはもともとユダヤ移民が作り上げたアメリカンドリームだから、その啓蒙活動みたいな1本。芸能に秀でていたユダヤ人と、「正論」派の新聞社とは水と油。WSAPのペックを使ってユダヤ人系の主張を映画にして、オスカーをさらったのは、啓蒙活動の「上がり」でした。同年の「殺人狂時代」と見比べるのも一興。 【FOX】さん 5点(2003-06-22 21:33:20) (良:1票) |
1.ご立派。ひねくれた見方をすれば、傲慢。つまり、差別する側の人間(主人公)が、被差別側(ユダヤ人)のふりをするというのは、結局上から見下ろしている、低いところへ下りていくという印象を禁じえない。「差別の実態を知る」なんていっても、そんなことはユダヤ人にしてみたら「何を今さら」だろうし、身をもって体験しないと分らないということ自体が問題。ユダヤ人のふりをすることによっていかに屈辱的な扱いを受けようと、正体を明かしてしまえば彼はまた以前の生活に戻れるのだから、所詮それは疑似体験に過ぎないわけで。なんだか動物愛護団体のような不遜な感じを受ける。乱獲するのも人間の傲慢、保護するのも人間の傲慢でしょ?それとも罪悪感? まあ、根が深い問題だけに、エリア・カザンのその後も含めていろいろ考えさせられる作品なのは間違いない。 【愚物】さん 6点(2003-05-02 12:21:42) (良:1票) |