《改行表示》 5.《ネタバレ》 タイトル、予告編、そして本編鑑賞時の印象。全てに強烈なミスリードを感じてしまいましたし、実際されてもしまいました。ただ、そのこと自体は否定しません。他者の主観を表現し理解を得るにはデフォルメは不可避かと思います。 母親の視点で語られる冒頭部分における愛息子や教師の見え方は母親本人にとっては間違いなく現実であり、保利教諭の視点で語られるパートでの母親の表情や言動は彼自身にとって紛れもない現実です。そこに固有の主観がある限り、誰一人として他者と同じ理解や価値観をもって物事を観察したり考証したり出来る訳はありません。少なくとも一般的な人物である限りは。 映画という手段によってあるテーマを語り、なおかつより多くの観客の理解や感銘を得るためには、作り手は自らの主観を越えた表現を求めなければならないように思えます。(というのも私の主観に過ぎない訳ですが) なので、本作である意味過剰とも受け取れる人物表現やその表情や言動等の齟齬・矛盾は必要不可欠だったのではないでしょうか。 その上で本作を語らせていただければ、登場人物一人ひとりの人物像が丁寧に語られ、子を持つ親の悩み・苦しみ、人の子を育てる教師の悩み・苦しみ、そして自我の目覚めと性の目覚めの年頃を迎えた少年たちの悩み・苦しみ更には夢と希望、それらが丁寧に描かれた佳作であると思いました。 シングルマザーに至るまでの熾烈な過去を愛息子の前ではひた隠しにし、只管彼の「普通」の幸せを求める母親。ある意味守りに徹している姿には力強さより悲壮感を感じました。 新任教諭として赴任し、子どもたちとのコミュニケーションを大切にし、退勤後は恋人との甘い生活を送る「普通」の青年である保利教諭。追い詰められ、全てを失っても飼っている金魚に残酷な仕打ちをすることは出来ない優しさは心に遺している。(当たり前に捉えれば一番の被害者かも) ひとり親世帯になった原因を漠然と知りながらも、愛する母親のために平静を装おうとする湊少年。優しさ故に依里君をかばうもののそれに徹することの出来ない自分への内省と、親友的に思っていた彼との距離が縮まった瞬間に性的感情を無意識化に得てしまい身体の反応に狼狽えてしまう「普通」の少年。 自らの性的違和感を理解しつつある中で、それを理解するどころか消し去ることしか考えない父親からの虐待に耐えるしかない日々を送る依里。それはやはり父親への愛なのか優しさなのか。学校で繰り返されるいじめ行為にも、クラスメートを達観することで耐えているように思えます。その姿からは怪物感は得られません。 クライマックス。母親と保利教諭が半分こじ開けた車窓から見たものは何だったのか?湊君と依里君が敢えて通過し直した廃車両の先に広がっている世界はどこなのか?単純に受け止めてしまえば土砂崩れで亡くなってしまった二人の魂が次の世界へと旅立っていく姿と捉えられないこともありませんが、だとすればそれは希望ではなく現世に絶望を遺したままの旅立ちであり、二人が真に求めていた世界とは乖離しているように思えてしまいます。 かと言って、実は二人は無事だった、母親と教師が救出した、というのも無理と言うかそこに至るまでの作品の世界観とは異なるのではと思えてしまう。結果、自分なりの納得いく結論は得られていません。 強いて言うならば、「怪物」は決して特定の個人ではなく、個人個人が生きる社会のシステム全体の中に浮遊しているものなのかなと思えた次第です。幾度か鑑賞し、作り手の意図するものとそれを受け取って得たものについて熟考することを求められる作品でした。 (追記) 校長の葛藤と夫の真意。依里の父親の苦悩。これ以上の長尺化は好ましくはないと思いつつ、このテーマに不可欠な登場人物とエピソードであるのならば、もう少し掘り下げて欲しかったなと思いました。 【タコ太(ぺいぺい)】さん [インターネット(邦画)] 7点(2025-02-22 11:41:14) (良:1票) |
《改行表示》 4.《ネタバレ》 すでに評判の通り、同じ事柄を母、教師、息子の3者の視点から描かれます。 視点が変わるたびに見ているこちらの先入観をこれでもかというほどひっくり返されます。 特に湊視点で片方の靴をなくした場面と、校長にトランペット(トローンボーンだったかな?)を吹く場面がとても好ましかったです。 あと、高畑充希が退場する場面での「また今度」にはニヤリとさせられました。 怪物は誰なのか、少年たちは死んだのかがいろいろな場面でコメントされていますので、今時点の見解を残しておきます。 私は、他人や自分自身であっても自分には見えない部分があり、それに対する恐れや思い込みが怪物で、視点を変えながら物語を進め、私たちの先入観を取り除いていくことができれば、怪物なんて本当はいないんだと説明されているように思えました。 嵐の中横倒しになった車両に雨が落ちる場面は、美しいながらも息苦しく、終盤に湊と依里が車両から出て駆け出す場面では涙があふれましたが、でも少年二人は死んでいないと信じることにします。 モチーフになったと思われる銀河鉄道の夜もカンパネルラとジョバンニは死んでいないと信じてます(笑) 是枝監督が活躍する時代に生きていてよかったなと思います。 【なつこ】さん [映画館(邦画)] 8点(2023-07-16 16:23:36) (良:1票) |
《改行表示》 3.《ネタバレ》 少年二人は死んじゃったんだな。。。救いようがない悲しいラストだ。 初めの母親視点では、教師側の生徒に寄り添っていない他人事丸出しの態度はあまりにひどく思われた。しかし、教師の視点に代わるとそれは誤解で正しくない・・・となるが、でも実際どうなのか? 母親がモンペで自分の都合の良いようにしか物事を見ていないとしても、担任教師のあの感情のまるでない冷たい態度は観客を大きくミスリードしていないか?おまけに会話の最中に飴玉を食べるとか、そりゃ、ふつう怒るよ。 教師の視点になると、担任教師には普通に感情があり(そらそうだ)、いくらなんでも母親視点で担任教師にあそこまで感情がなく、終始非常識な態度を取られたと感じるだろうか?母親はそこまで異常に見えなかったし、さすがにおかしくないか? 母親、担任教師、校長先生、少年達は自分のターンで都合の良い解釈を語る当事者なので、こちら(観客)としては100%信用することができないから、この場合、第三者の客観的視点での事のあり様が真実であり、それをアンサーとして知りたかった。 そうすると、この物語で足りないのは当事者ではない他の先生方の視点ではないだろうか。 そもそも母子家庭だからモンペだと決めつけて、母親の訴えについて真摯に取り合わず、事実確認をせず、誤解があれば解く努力を初めから放棄している学校側にも十分問題がある。 母親にも問題がないとは言えないが、一人息子のために必死になるのは理解できる範囲であり、なのに最後は母親が怪物として暗示される感じに違和感がある。母親は夫に続いて子供まで亡くしてあまりにも気の毒だ。 「怪物だーれだ」という問いかけだが、みんな問題はある。でも、だからと言って誰も怪物ではないと思う。 また、作品の余白は観客の想像に委ねることも良いが、母親、担任教師、校長先生、少年達、そして同級生についても想像しないといけないほど余白が多いのはちょっと勘弁してほしい。特に、あの作文(あいうえお作文?)を読んで担任教師は何を謝罪したかったのか。ラストにつながる部分だからこそ、ここだけははっきりと提示してもらいたかった。 【リニア】さん [映画館(邦画)] 6点(2023-06-26 21:02:13) (良:1票) |
《改行表示》 2.「怪物」と冠されたこの映画、幾重もの視点と言動、そして感情が折り重なり、時系列が入り乱れて展開するストーリーテリングは意図的に混濁している。そして、その顛末に対する“解釈”もまた、鑑賞者の数だけ折り重なっていることだろうと思う。 本当の“怪物”は誰だったのろうか? そもそも“怪物”なんて存在したのだろうか? 詰まるところ、私たち人間は皆、脆くて、残酷な“怪物”になり得るということなのではないか……。 鑑賞直後は、自分一人の思考の中にも、様々な感情や気付きが入り混じり、形を変えていった。 ただ、僕の中で、しだいに導き出された明確な「事実」が一つある。それは、この社会の中で一番“怪物”に近く、一番“怪物”になる可能性が高いのは、やはり「親」であろうということ。 本来人間なんて、自分一人を守り通すことだけでも必死で、余裕なんてあるはずもない。 でも、ただ「親」になるということだけで、問答無用に自分自身以上に大切な存在を抱え、それを「守り通さなければならない」という「愛情」という名の“強迫観念”に支配される。 微塵の余地もなく、自分の子を守ることも、正しく理解することも、「親なんだから当たり前」と、自分自身も含めた大半の親たちは、思い込んでいる。 でも、その“私はこの子の親なんだから”という、自分自身に対する過信や盲信が、得てして「怪物」を生み出してしまうのではないか。 一人の親として、本作を観たとき、最も強く感じたことは、誰よりもこの僕自身がモンスターになり得てしまうのではないかという“恐れ”だった。 したがって、本作の登場人物たちにおいても、最も「怪物」という表現に近かったのは、安藤サクラ演じる母親だったと、僕は思う。 彼女は、愛する息子の変調を憂い、いじめやハラスメントを受けているに違いないと奔走する。 シングルマザーとして息子を心から愛し、懸命に育てる彼女の姿は、“普通に良い母親”に見えるし、実際その通りだと思う。 意を決して学校に訴え出るものの、校長をはじめとする教師たちからあまりにも形式的で感情が欠落したような対応を繰り返される母親の姿は、とても不憫で、まさしく話の通じない“怪物”たちに対峙せざるを得ない被害者のように見える。 しかし、視点が変わるストーリーテリングと共に、物語の真相に近づくにつれ、母親が「怪物」だと疑っていたものの正体と、本人すらも気付いていない彼女自身の正体が明らかになっていく。 彼女は明るく、働き者で、息子の一番の味方であり理解者であることを信じて疑わないけれど、実は、夫を亡くした経緯がもたらす心の闇を抱え続けている。 そのことが、無意識にも、息子に対して“普通の幸せ”という概念を押し付け、アイデンティティに目覚めつつある彼を追い詰めていた。 最初のフェーズでは、紛れもない“良い母”だった彼女の言動が、視点が転じていくにつれ、自分が“奪われてしまったモノ”を、一方的に息子の未来で補完しようとしているようにも見えてくる。 “普通に良い母親”が、実は抱えている心の闇と、我が子に対する無意識の圧力と、或る意味での残酷性。 母親のキャラクター描写におけるその真意に気がついたとき、目の前のスクリーンが大きな“鏡”となって自分自身を映し出されているような感覚を覚えた。 無論、“普通に良い父親”の一人だと信じ切っている僕には、安藤サクラが演じる母親を否定できる余地などなく、只々、身につまされた。 人の親になろうが、学校の先生になろうが、人間である以上、心には暗い側面が必ず存在する。 その側面がたまたま互いに向き合ってしまったとき、人間は互いを「怪物」だと思ってしまうのかもしれない。 長文になってしまったが、ちっとも纏まりきらず、語り尽くせぬことも多い。 子役たちの奇跡的な風貌、田中裕子の狂気、坂元裕二の挑戦的な脚本に、亡き坂本龍一の遺した旋律……。 鑑賞にパワーはいるが、何度も観たい傑作だ。 【鉄腕麗人】さん [映画館(邦画)] 10点(2023-06-24 22:56:54) (良:1票) |
《改行表示》 1.《ネタバレ》 親の視点、教師の視点、子供の視点により物語は進んでいく。違った視点で時間軸だけが交錯してい手法は黒澤の「羅生門」でもおなじみだが、ミステリー調の展開で大変面白い。 共通するのは三者の間で理解しあう姿勢が全くなく自己の世界のみで完結している点だ。 子供の世界は残酷で、個性的な弱者はいじめの対象になりがちでそれをかばうとその子がいじめの対象になる。そこに同性愛の要素が加わってくるので複雑だ。繊細で壊れやすい子供たちの世界が坂本裕二ならではの脚本で描かれる。 永山瑛太の担任教師は何も悪くないのに誤解され、裏切られ、恋人には振られ、裁判で起訴され、ほんと可哀想としか言いようがない。 田中裕子の校長先生が一番恐ろしい。 【とれびやん】さん [映画館(邦画)] 7点(2023-06-03 16:45:20) (良:1票) |