《改行表示》 1.自分自身、結婚をして、子どもが生まれて、ちょうど10年前に家を建てた。 “家”の中で家族で過ごす時間は、あまりにも有り触れていて、普段その価値を見出すことはなかなかできないけれど、最近ふとした瞬間に「ああ、これが幸せというものかもしれないな」と感じることがある。 その瞬間はあまりにも唐突で何気なく訪れるため、映像や写真に残ることもなく、ただただ過ぎ去っていく。 逆に、最も長く過ごす場所だからこそ、家族に対して怒ることもあるし、さみしい思いをしたり、悲しくなったりもする。 “コロナ禍”を経て、全世界単位で「自宅時間」が増えた経緯を持つ今だからこそ、有り触れた一つの場所で織りなされる“営み”の価値を、再発見した人たちも多いことだろうと思う。 そんな時代に生み出された御大ロバート・ゼメキスの最新作は、時を越えて、幾つもの世代の「家族」の、めくるめく“営み”を、ただ一点の視点で俯瞰しつづけた意欲作だった。 数十億年に渡る時の流れを“定点映像”で映し出し続けるという映画的なダイナミズムと、その中で描き出されるとても普遍的で、繊細な人生模様。 そこには、七十歳を越えて、いまなお映画表現におけるチャレンジングな姿勢が衰えない大巨匠の真骨頂が示されていた。 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をはじめとして、「フォレスト・ガンプ」、「コンタクト」、「キャスト・アウェイ」、近年も「フライト」、「ザ・ウォーク」、「マリアンヌ」と、あらゆるジャンル、あらゆる題材で、映画史そのものを彩り続けるゼメキス監督の創造性は、まだまだ色褪せないようだ。 本作で描き出される、いや“映し出される”家族像や物語は、決して特別なものではない。アメリカに限らず、どの国、どの時代においても、どこにでもある普通の家族の普通の人生像であろう。 それなのに、ただ一つの視点で、形容しがたい情感を生み、スクリーンに釘付けにする。そして、気がつくと涙が溢れ出ていた。 それぞれの世代の家族同士の会話や結びつきに“ドラマ”が生まれることは、ある意味当然だろう。しかし、この映画は、映し出されている或る家のリビングの中にあるソファやテーブル、掃除機、壁紙、窓の外の風景に至るまで、ドラマを感じさせる。 本作が特異で素晴らしいのは、まさにその部分であろう。 スクリーンの“四角”で切り取られた視界の隅々に散りばめられているその家族の生活の「証」のすべてから何かしらの“感情”が生まれ、それらすべてが一つになって「人生の物語」となっている。 時代や世代が切り替わるタイミングでは、常に映像の中の一部がコマ割りで残った状態で次の場面へとブリッジされる演出も、まさに一つひとつのモノやコトに物語が内包されていることを示す巧みな映画表現だったのだと思う。 映画のラスト、トム・ハンクスとロビン・ライトが演じる老夫婦が、共に思い出した記憶が、本作のテーマを雄弁に物語る。 夫の母親が選んだ趣味の悪いソファの下に、娘が大切にしていた無くしたリボンが見つかり、彼女が大喜びをしたという、とてもとてもささやかな思い出―― 義両親との同居も、ソファも、このリビングも自分の人生における「不満」の象徴だったはずだけれど、すべての美しく眩い記憶は“ここ(HERE)”で生まれていたということ。 帰宅すると、いつもと変わらず妻と子供たちが、リビングの食卓についていた。 その変わらない視界も、この先時間の経過と共に、様々な感情を生み続け、そして「過去」となっていくのだろう。 それは、少しさみしくて、不安でもあるけれど、とても愛おしいことなのだと思う。 喜びも、悲しみもひっくるめて、私も“ここ”を大切にしていきたい。 【鉄腕麗人】さん [映画館(字幕)] 9点(2025-04-10 23:00:51) |