5.この作品を見てると、何となくムンクの絵画を想い出しちゃったりします。例えばあの、「生命のダンス」の、生命感の無さ(笑)。 映画にしては人物の動きが乏しく(まるで調度の一つとして存在するような)、しかしカメラはその壮麗ながらも空虚な雰囲気の中を、緩やかに動き続けたりして、どこまでも、落ち着かない感覚。噛み合わない視線。 話によれば、一応は整合性みたいなものを内在しているらしく、謎解きをすれば出来なくは無い、というコトなのかも知れないけれど、私のような不真面目な人間には手に余るので、分析してみようなんて気は全く起こりません。例えば、セリーがいくら厳格なルールに基づく作曲技法であったとしても、それが聴き取れないのでは、如何ともし難いワケで・・・。 菊地秀行さんが著書(「怪奇映画ぎゃらりい」)の中で、怪奇映画ベスト100の一本としてこの作品を挙げてたような記憶が何となくあるのですが、確かにこの作品、そういう楽しみ方が一番楽しめるような気がします。 【鱗歌】さん [インターネット(字幕)] 7点(2022-01-30 10:07:54) (良:1票) |
4.何が現実で何が夢なのか、全てが現実かもしれないし、全てが過去かもしれない謎に包まれた映画ですが映画そのものが一種の小 宇宙を形成しており、直ちにこの独特の異空間に吸い込まれてしまった。感覚が高鳴る映画であることは間違いないと思う。 【たましろ】さん 9点(2003-11-29 23:11:14) (良:1票) |
3.流麗な移動撮影にしろ、端正な構図の画面設計(あの幾何学的な庭園!)や美術、華麗なココ・シャネルの衣装にしろ、一見まさに映画そのものであるように思えて、実のところこれは、すべてのカットやシーンがアラン・ロブ=グリエの脚本(=文学)の一語一句を、文字通り形象化したものにすぎないのでは…と、ぼくは見ました。それはそれでアラン・レネ自身が意図したものであるのかも知れないけれど、一方で「映画」とは決して文学の…コトバの”従属物”ではないと信じる者にとって、これは一種の映画の「敗北宣言(!)」みたいなものではないか、と。ためしに、ぜひかつて単行本として出版された脚本を読んでみてください。たぶん、映画化された本作以上にイマジネーションをかきたてられる、スリリングなものであるはずです。確かにこの映画は見事な「イメージ=(映像)」の構築品ではあるけれど、その実これは「(映画的な)イマジネーションの廃虚」であると、畏れ多くもぼくは「否!」と叫びたく思うのです。ファンの皆さんの、「何をエラソーに」とお叱りを受けるのを覚悟の上で。 【やましんの巻】さん 4点(2003-11-17 16:45:51) (良:1票) |
2.え? これは10点でしょう。むかし、自主上映の団体があって、赤字がひどくなると、この映画で急場をしのいだ訳です。 |
1.その始まり方からして何とも不思議な映画です。時間、空間が交錯して、独特な作品世界を形成しています(しかもプラスアルファがいくつかあります)。その世界観は何だか解釈を拒んでいるようにも見えます(僕自身は「解釈狂」だと自分では思っており、この映画についても既に解釈を強引にしてしまいましたが・・・)。しかし何はともあれこの映画が、気だるく、幻想的で、そして無機的な美しさを備えていることは間違いないと思います。 【マーチェンカ】さん 9点(2002-07-07 13:23:40) (良:1票) |