4.《ネタバレ》 なんじゃあこりゃ!(優作モドキ風に)鬼才テオアンゲロゲロゲーロの傑作ということで、大森くんだりまでいったのに!まず、始めに。採点の2点は、長い期間かけて撮り貯めたフィルムと制作側の労力へ!しかし、なんなんですか、これha?まず、引っかかるのが、コレ”旅芸人”ですよね?出てる奴らそろいも揃って三文芝居。”芸人”の風上にも置けない。いや、唯の普通の連中うつしてるだけ。”長回し?”そう長回し!良くもまあ、これだけ、長いこと、飽きもせず、無意味な、風景、人、人のいる風景、背景、、、、そうです!”構図”です!監督が好きな構図のオンパレード!そりゃーいくらでも、いいショットあったでしょう!誰でもわかる。それがどうしたの?ただ、いい構図を撮したかっただけ。お話は?わかんない。というより、面白くない。たとえば旅一座が、公演の宣伝で、道端を練り歩きながら、”面白いお話だよ!明日から公演だよ!”と練歩く。もう、この時点でもう、面白い(楽しい!)旅芸人たちの舞台など、この映画で絶対に見ることができないことがわかる。どこかでおもろいことやったか?満足したか?旅芸人達が何か感動する芝居を見せたか?ってえの。芸がねえんだったら、”旅芸人の記録”ではなくて、”普通の人々の記録”でよい!なんか、いかにも芸術ですけん!なんだよなあ。しょっぱなのアコ-ディオンのこれみよがしな、安っぽい音から、ヤな雰囲気プンプン!イヤしかし!最後まで見てれば、きっと、なにかスゲーことが起こるはず!と最後までみたのに、、、、、何もねえじゃねえかよ!!!ほんとこういうのはムカ腹たつ!!!!、、、、、、いやいやチミチミ!そう気張らずに!、、、チミもギリシャ神話をちょーっと紐解いて、それからもういちど、、、、、、などと、老教授みたいなひとはおっしゃるかもしれない。。。。。。。いーや!俺は、判んないね!、こんなの!絶対!わかりたくもない!出演者にもお話にも撮り方にも”芸”がない。”芸術”ではない。芸のない芸人なんて、まるで俺のだいっきらいな”ロザンうじはら”みたい、、、、、。こんなの延々と映画館でながすくらいなら、友人宅で、友人おこさま総出演の”デジタルフォトフレーム”でもみていたほうが、少しは、目にも良いでしょう。(まる) 追加!やべえ!平均点下げちまった、、、、、 おまけにオレの駄文もクソ長い、、、、、、、、 【男ザンパノ】さん [映画館(字幕)] 2点(2012-12-30 23:24:19) (笑:1票) |
《改行表示》 3.《ネタバレ》 こんな長尺なのに、なぜか、これまでの生涯で四度も見ている…しかも毎回発見がある。もうすばらしいとしか言いようのない映画です。 下の方も書かれていますが、ギリシア神話、あるいはギリシア悲劇のアトレウス家の物語を知っていないと、理解が十分出来ません。 そういう、鑑賞者の知識を試すような映画は、原則的にはあまり好きではありません。でも、これはありです。私が最初に見たのは大学生のころで、そのころ、まったく背景的な知識を持っていなかったのですが、ただひたすら圧倒され、もっとこの映画を理解したい、と思ったものでした。その後、ギリシア神話の知識を身につけ、偶然この映画と再会し、そのときのあらためての感動ときたらありませんでした。たぶん、そういう映画です。 まだまだ十分な理解が出来ているとは思いません。きっと何年かしたら、またこの映画を見るのでしょう。 それでいいのではないかと思ってます。 【いのうえ】さん [ビデオ(字幕)] 9点(2007-09-02 15:09:48) (良:1票) |
2.『霧の中の風景』は素直に素晴らしい!と思ったのですが、これはいくら何でも退屈すぎです。一種の回顧録として、こういう激動の時代を歩んできた人たちにとっては「分かる分かる」ということになるのでしょうが、如何せん無知な自分には難解すぎました。終始感動とは違う意味で大量の涙が溢れ出してきます。ただ観ていて長回しということを忘れさせるほどの長回し映像は素晴らしい。結局感想は「ヤクセンボーレ!」ということで。ただ単に自分の馬鹿さ加減を露呈しているだけのような気がしますが、4時間もの時間を費やしたからには何かしらレビューを書きたいのです(わがまま?)。 【かんたーた】さん [CS・衛星(字幕)] 3点(2005-05-29 11:22:51) (笑:1票) |
1.時間はこの人にとってあまり重要ではないのだろうか。いつも同じことが起きていた(場所)こそが彼にとって重要なのだと思う。記憶から思い出されるのは時間ではなくていつも場所である。時間の旅行が伝えているのは常に不変だった場所だ。ただの場所ではない。記憶としての場所と歴史としての場所が彼の映画ではいつも混在する。そしてここから人物は登場しているかのようだ。人物が、場所から発生しているというのは非常に重要な事で、というのも、アンゲロプロスが生み出す神話的空間の磁場によって時間を越えた普遍性が彼らに与えられるからだ。旅芸人たちには神話の人物名が与えられている。長い時間をかけてさえ、場所が創り出すギリシャ的なものは変わることがない。だが、それではまだ半分足りない。ギリシャはギリシャという場所であると同時にバルカン半島という場所に包まれている。ギリシャ的なものが内なる力だとすればバルカン半島は外力だろう。バルカン半島は民族同士の争いが絶えず、当然ギリシャも巻き込まれた。この辺の歴史は、もう何が何だか分からない。政権交代、内戦、外からの侵略、虐殺・・ひたすらにこれの繰り返し。この凄惨な歴史を語るためにはそれなりの語り手が必要だった。アンゲロプロスが旅芸人に託したもの。それはまさに吟遊詩人の役目だったのだろう。「ヤクセンボーレ!」と叫ぶあの曲の悲しみはもはや言葉で表現などできない。吟遊詩人でありながら、ギリシャ市民が味わった悲劇を彼らも当然味わっている。[DADA]さんが指摘するように遠景の長回しでゆっくり歩く彼らはギリシャの一般大衆でもあり、ここから彼の映画で重要な要素となる大衆と音楽の交差が見えてくる。こんなに贅沢で思索にも富んだ娯楽映画はない。最初に時間はあまり重要ではないと言ったが、例外が一つある。冒頭とラストのシーンだ。全く同じ構図で同じセリフなのにもかかわらず、見る側は全く違う印象でこのシーンを見つめることになる。4時間の長丁場がまるでこのシーンでの時間と空間の再会の為に用意されているのではないかという位の仕掛けだった。映画叙事詩の最高峰。 【Qfwfq】さん [映画館(字幕)] 10点(2005-03-03 12:32:13) (良:1票) |