4.《ネタバレ》 あり?黒沢作品は今まで「神田川淫乱戦争」しか観た事なくて、あれは確かに訳分からん映画だったけど、これはすごく分かり易くてポップな作品だったと僕は思ったんだけどな。端的に言えばこれは象徴的な意味での「父と子の関係性の回復」の物語なのだと思う(そういう意味では「ビッグ・フィッシュ」にも通じるものがある)。僕は若者ではなく、そろそろ中年の階段を上るお年頃(いや~ん)なので、浅野オダギリの感覚も笹野高史(殺されるオッサン)や藤竜也の若者に対する感覚も分かる気がする。僕も多分若い頃にああいう形で「どんなCD聴いてるの?」とさほど親しみを感じている訳でもないオッサンに言われたら、殺意は芽生えないものの多少イラついたと思うし、自分の息子に対して父親らしい態度が取れずに困惑する藤竜也も凄く「そうだよなー」と思った。何故かと言うと、僕と父親も似たような感じだから。いや、別に「一千万出せよ」とか言ったりはしないけどね。ウチの父の場合、僕が子供の頃は仕事の都合で殆ど顔を合わせなかったし、大学入ってからは一人暮らししてて連絡もあんまりしなかったんだよね(因みに母親は僕が中一の時他界)。んでまあ色々あって今一緒に暮らしてるんだけど、やっぱコミュニケーションたどたどしいもん。親父は僕がどんな音楽を聴いているとか、どんな映画を観てるとか知らないし、僕も親父の事を実はよく知らない。ぶっちゃけた話感謝も尊敬もしてるけど、それをどういう風に出したら良いか分かんないんだよね・・・っていつの間にか告白タイムになっちゃった。映画に話を戻すと、つまりオダギリと藤竜也は自殺した浅野を介して擬似的な父と息子の関係性を獲得したんだと思う。んー、まーつまりさ、ぶつかり合えば良いじゃんって事だよ。あの「許す」のシーンは泣けました。僕が監督だったらあれをラストシーンにすると思うんだけど、そうしなかったのは監督の「照れ」かな。そうそう、最後の高校生のシーン、あれは監督の若者に対する「挑発」なんだと僕は解釈しました。「お前らはどうするんだ?これからの“ミライ”」っていう、ね。浅野忠信も言ってたけど、僕はこれ観て爽やかな気持ちになりましたよ。あと、もうちょっと親父と話しとこうかな、とも。僕は今の所自殺する予定も死刑囚になる予定もないけど、親父もう七十過ぎだからさ。あ、THE BACKHORNの主題歌も最高。 【ぐるぐる】さん [DVD(字幕)] 9点(2005-05-04 16:51:01) (良:2票) |
3.《ネタバレ》 先の読めない始まり。いらいらする日常。意外な展開。感動的な予定調和で終わるのかと思わせておいてプチンと中途で終わる意外性。オダギリジョーの姿ではなく表参道を歩く高校生達で終わらせた黒沢監督は天才ではないかと観た時は思いました。他にもいろいろラストの絵は考えられたと思いますが、決して誉められた存在ではない筈の、脇役である高校生達を最後にもってきたことで、そこまで描いてきた3人の男達のドラマと映画のタイトルが観るものの心にずしっと何かを来させたのではないかと思うのです。何故なら誰でも高校生だった時はあるのだから。そう、あの頃、漠然と未来に対して抱いていたイメージは「明るい未来」ではなく「アカルイミライ」だったなあ、とデジャブ感みたいな感じで自分の中で納得してしまいました。この映画は希望の映画だと思います、ホント。「明るい未来」ではなくて「アカルイミライ」、のっぺりと記号化された抽象的な未来でしかないけれど、そこへ向かって歩いていく。うーん、この映画ほど、心には何かが届く、でもそれを言葉にはうまくできないという映画はあまり無いのではと思います。そういう意味では最も映画としては成功している映画、ということで満点です。 【Sean】さん [CS・衛星(邦画)] 10点(2007-07-23 17:22:39) (良:1票) |
2.若者の怠惰な生活、すぐキレる性格、そして凶悪な殺人、、。親に対する息子の態度の醜悪さ、対する親の威厳のなさ、集団でたむろしては目的もなく犯罪を重ねる高校生、、。そんな描写から描かれるのは普通、現代の教育問題だったり、家庭問題だったりがテーマとして与えられ、現代社会の病巣が描かれたりするものです。そうなると、この先日本はいったいどうなるんだという不安や諦めが作品を支配するか、もがき苦しむ若者たちの悲壮感であふれた作品になるしかないはずである。しかしこの作品はそのどうしようもないひとつひとつの描写から見えないはずのほんの僅かな光を見ようとし、幻かもしれないその「アカルイミライ」を確かに画面に残した傑作だ。題材に縛られない演出をこれまでずっと観せ続けた黒沢清が、今回もネガティブな題材をポジティブな演出で観せた。殺人という、とり返しのつかない罪を犯した若者は、もしかしたら友人を助けるためだったのかもしれないという微かな光。もちろん殺人を肯定するものじゃなく、全くの闇じゃないという可能性の提示でしかない。しかしその可能性も見ようとしなければ見えないもの。擬似家族がさらに光を模索する。今の若者の凶暴性や欲深さや無気力さの原因がどこにあるかは描かない。そうなってしまった彼等は、彼等なりに生きるしかない。ラストシーンの無理やりに引き出した「アカルイミライ」が眩しかった。 【R&A】さん [DVD(字幕)] 8点(2005-12-16 16:57:01) (良:1票) |
1.《ネタバレ》 「浮遊するポストモダン」この映画に解説をつけるのならば、さしずめこんなタイトルにするだろう。日本のポスト近代への移行が、共同体の解体に伴い、規範を壊し続けているとしたら、そこに生み出されるものは何であろう?その答えが、真水に生きるクラゲと、街を闊歩する少年達だ。フワフワと漂うクラゲ、そして、フワフワと生きる少年達は、一見してただ流されるだけの存在でしかない。社会から外れ確固とした意思を持つわけでもなく、気分だけで生きる彼ら。それが日本のミライだと言われれば、多くの人は戸惑うに違いない。海でしか生きられないはずのクラゲは、水槽という閉じた系から、あるとき外界へ流れ出す。それはこれまで淘汰さてきたはずの存在が社会に溢れだしたこの10年を模している。宮崎勤、宅間守、数多くの不可解な事件が世を騒がせた。オタク、トラウマ、家族崩壊、、、メディアは理由を探し社会は憎むべき者を探して彷徨った。「責任能力を有する」つまり「正常」な彼らがなぜ平然と「異常」な犯罪を犯したのか。そのパラドキシカルな問いに向かい合えない我々は、「不可解」の一言で片付けてきた。しかしクラゲの毒に理由があるだろうか?クラゲの心がわかるだろうか?それは、完璧なる断絶である。守のように社会の規範や価値観から離れたアウトロー(宮台真司は『脱社会的存在』と呼ぶ)は、我々の言葉では語ることができない。これは村上龍の示すような、楽観的アウトローの姿ではない。真水の東京で生きる力を獲得しても、クラゲ(=アウトロー)は危険で駆除されるべき存在でしかない。しかし未来を予言する仁村は確信を持って答える。「彼等はきっと帰ってくる」と。アウトローと共生することのできる唯一の存在である少年達の胸には、戦いの中で死んだゲバラがイコンとして刻まれている。彼らは「アカルイミライ」を支え歩き続ける。(それがエンディングで示されたようにフィクションだったとしても!)黒沢清の提示したミライ。それは日本のポストモダン像に他ならない。過去を生きる者達は傷つきながらも「許す」のだろうか。それとも、徹底的な駆除を試みるのだろうか。この映画のタイトル「アカルイミライ」は近代批判、または、ニヒリズムではない。我々はそれを受け入れるしかない。黒沢は淡々とそれを描いている。 【fero】さん [DVD(字幕)] 9点(2004-02-29 06:12:52) (良:1票) |