《改行表示》 12.私は無宗教だが、啓蒙思想が宗教を愚かとする考えには反対である。 世界の人々の信仰の意味をできる限り理解したいし、敬意を払いたいと思っている。 キリスト教であれ思想哲学なんであれ、賞賛すべき事は、 普遍的な道徳心を社会に提供し、それが何世紀にも渡って文化を築いたという 事実だと思う。 ニーチェは神の名の元に善意的な思考をすることは、負け組みの正当化に過ぎないとしたが、 善意的な思考を正しいと信じてくれる社会が存在することは心救われる気持ちになる。 私はキリストが拷問される姿を観て嘆き悲しむマリアの姿に心打たれた。 キリストが拷問される姿には恐怖は感じても悲しみは湧かなかった。 しかしクリスチャンの方だろうか、すすり泣いている方がいた。 この差が宗教なのだろうか。 しかし考えてみたら、幼い頃からクリスチャンの方は 週一のお祈りでキリストに会っている。 私とキリストに対する親しみと愛が違う。 表現が悪いと思われるだろうが、もし、このキリストが ドラえもんだったら、私はドラえもんが拷問される姿に泣くと思う。 ドラえもんが拷問される姿に泣くのび太に泣き、しずかちゃんに泣き、 裏切るスネオに泣き、あの人を知らないと叫ぶジャイアンに泣くだろう。 不謹慎な例だと思われるだろうが、幼い頃から親しんでいる 一種偶像としてドラえもんは私にとって神聖な存在であるらしい。 もちろん実際に会ったことがあるわけではない。 毎週のびたに説明するドラえもんの小言。説明。思考。 完全とはいえないが、のびたにより良くなってもらおうという愛がある。 聖書もこれに似ている。 ようは話を聞く側は、話しての愛をどう受け止めるかなのだ。 正しい間違っているはたいした問題ではない。 さて、ところで、パッションを観て癒されたという人もいたらしいが、 それは何故なんだろうか。 こればかりはドラえもんではわからない。 ドラえもんが生き返った映像があっても私はそれは気休めにしか思えない。 この先はそれこそキリスト教の世界なのかな? 【夢の中】さん 4点(2004-06-29 01:20:37) (良:4票)(笑:4票) |
《改行表示》 11.この映画のモチーフはイエスの十字架上の死に至る12時間と実に潔い。使用される言語は古代アラム語で、これはイエスの時代に実際に中東地域で広く使われていた言葉だ。メルギブスン監督が描こうとしたのは、彼が考えられるギリギリのリアリティだった。残酷なシーンが延々と続くのも、イエスが受けた拷問と十字架上の死を脚色なしで再現すると結果的にそうなるからだ。十字架刑は人類史上もっとも残酷と言われる刑罰で、目をそむけたくなるのはまともな神経の持ち主ならば当然だ。 それは当時、イエスの死に立ち会った(あるいはたまたま遭遇した)人々が感じたことだったはずだ。結局、この作品を観た人は、いわばイエスの死の目撃者となってしまう。そして、2000年前その場に居合わせた人たちが感じたであろう様々な感情と同じように、この作品を観た人は、その人ならではの感じ方をしてしまうのだろう。ある意味、実に恐るべき映画だ。「映画鑑賞」などという余裕を与えないのだから。そうした視点で改めて観てみると、この作品には実に様々な群集が登場していることに気が付く。その群集の中に、私たち自身もいる。 【ヨアキム】さん [DVD(字幕)] 9点(2005-07-27 14:30:38) (良:2票) |
《改行表示》 10.《ネタバレ》 長文ごめんなさい。非キリスト教徒としての点数です。キリスト教に全く触れたことのない人には勧められないと思ったので7点としました。私は大学のころバッハのマタイ受難曲に魅せられ,課外セミナーではあったけど聖書について多少,勉強しましたが,かりに私がキリスト教徒であるとすれば迷わず10点であったでしょう。 批判覚悟で,この題材に果敢に挑戦した勇気だけでも,スタッフ全員に拍手を送りたいと思うからです。 たしかにイエスの行いをもっと取り入れて欲しかったという想いが大きい。いきなりユダの裏切りから入ってしまうのは面食う。けれども,制作者には,一般の人間が,イエスの人類にたいする愛の哲学の内容を完全に表現することは困難だという,慎み深さというか,イエスに対する畏敬の念があったのではと考える。それは完全な形では聖職者にしかできないから。その意味でも,この映画を観る側には既に聖書を理解していることが前提になっていると思う。決して親切ではないが,それを映画に求めることはできないであろう。私は非キリスト教徒を対象とした映画ではないと思った。だから私は自分が評者として不適格だと考える。しかし,同時に,それでもなお,観てしまった以上は,「人間」として言及しなければならない映画であるようにも,感じてしまった。それがこの映画のすばらしさであったと思う。私が聖書のなかで一番哀しいけれども尊く想っているペテロの否認の場面では,あまりにもそっけないところにかえって客観的視角を感じ,感銘を受けました。 そして,今,この時代に上映される意味が大きい映画だと思います。この映画はグロの世界かもしれない。しかし,相も変わらず世界各地で繰り広げられている,その人間の愚かさの引き続く過去にあらためて愛の必要を気づかされるから。 【Tonto】さん 7点(2004-05-03 04:13:12) (良:2票) |
9.娯楽系ならともかく宗教を題材にしたR-rated(18歳未満入場禁止)の映画なんてあってはならないし、映画館で鑑賞中に2人が死亡なんてことも、作る側にとっては不可抗力ですが、本来絶対にあってはならないことです。私は5、6歳のころから聖書に親しんで「イエス様は人間の罪を負って十字架の上で亡くなってくださった。」と観念的に理解していました。子供でもこのくらいのことは観念的に理解できるものです。それなのに、どうしてその様を如実に映像化する必要があるのでしょうか?生々しい血まみれの映像にも増して、どうして人があれほど残酷になれるのかが私には全く理解できず、シュ-ル・レアリズムの世界のようでした。リアルティーがある登場人物は良識家のローマの総督ピラトと博愛主義者のその妻、聖母マリアなどだけであとは全員、キリストを含めて人間の皮を被った異星人のようでした。これは私の理解力が未熟なせいではないと思います。「理解力が未熟であること」を根拠に映画の18歳未満鑑賞禁止が指定されるのならば、大人にとってもわけのわからないバイオレンスを扱った映画はたとえ宗教が題材であっても作るべきではありません。そもそもイエス・キリストの処刑そのものが、公正な裁判の結果での死刑などとは異なっていて全く根拠のない不条理なものなので、バイオレンスの部分の拡大描写を入れた作品として観衆に見せるべきものではないと私は個人的に思っています。「ラストまでにバイオレンスに慣れて涙が出なくなった。」と語っているキリスト教圏の批評家(Time紙)さえいます。これがメル・ギブソンが意図したことなのでしょうか。彼の製作姿勢は大いに疑問です。キリスト教徒の友人の強い薦めでこの作品を見て仏教の文化圏に生まれたことを誇りに思ったほどです。 【かわまり】さん 0点(2004-03-31 13:23:45) (良:2票) |
《改行表示》 8.今更ながら観ました。賛否(というより否)ありますが、減点の理由が見当たらなかった、という意味で敢えて10点をつけたい。 確かにこの映画は聖書を読んでいない人には、説明不足になってしまうと思う。ただ、元々キリスト教圏で製作された映画なので、そこは日本人があれこれ言っても仕方ないと思う。 僕も映画にはエンターテイメント性を求めますが、こういうのも映画だと思う。 この映画へのメルギブソンのコメントを知らないのですが、僕は生のキリストに、十字架に迫った映画だと思いました。聖書で読むキリストは、どうしても復活とか、奇跡とか、そんな神話的要素で脚色してあり、それを神の子の証拠にしているような印象を受け、僕はどうしても「キリスト」をイメージできなかった。 この映画で僕は、キリストの愛に触れることができたような気がします。残虐シーンは、十字架にリアリティを持たせるため、僕は必要だったと考えます。最期の「エリ エリ ラマ サバクタニ」の響きに、最後まで葛藤しながら愛を示そうとしたイエスに崇高な情熱を感じました。茶化しではなく、究極のキリスト礼賛(賛美とは少しニュアンスが違う)映画です。 【おぎ】さん [DVD(字幕)] 10点(2005-11-30 14:46:50) (良:1票) |
《改行表示》 7.《ネタバレ》 い・痛々しい・・・(> <) ←こんな風に思わず目をつぶりたくなったシーンが山ほどあります。なんかこういう映画を観てしまうと宗教ってなんのためにあるのかほんっとわからなくなりますね。人にとっての心の拠りどころや安息を見つけるために宗教って存在してるはずなのに、反対にそれぞれの宗教で異端とされるものは安息どころかこんなふうに扱われるのかと、すごく複雑な気分で観ていました。 「どうしても宗教なんてものが存在するなら全てまとめて一つの宗教にすればいいのに」と誰かが言っていたのを思い出しました。実際、そうすることで宗教戦争などが無くなり、無駄に命を散らす人などがいなくなるなら本当にそうなってほしいと思います。口では「命ほど尊いものは無い」とかいいながら宗教戦争とかあり得ないでしょう。自分勝手な解釈ながら、映画を観ながらずっとそんなことばかり考えていました。 話としては、ユダの裏切りからどういう経緯でゴルゴダの丘に磔にされるに至ったのかや荊の冠などが映像として見れて勉強でき、とても満足しています。でももうちょっとキリストについて勉強しとくべきだったかな・・・。 娯楽映画とは程遠いものですが、誰だって名前ぐらいは知ってるイエス・キリストについて深く知るいい機会ですし、一見の価値ありです☆ 【TANTO】さん 6点(2005-01-27 11:08:44) (良:1票) |
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6.この作品は観なければいけないんだろうなと思いました。そして観ました。映画を観た小泉首相は「いや~、、残酷な映画だったね」と言っていたけれど、この作品の論点はそこではないと僕は思いました。映画を観た教会関係者がショック死したり、殺人犯が自首してきたり、ましてメル・ギブソンが私財を投じてハリウッドとしては破格の値段で制作し、フタ開けてみたら大もうけ・・・なんて、それはこの映画をアピールする要素であり、作品としてのPRであって、そのもの自体を語ってはいないです。この映画はイエスがイエルサレムの聖職者に捕まり、ゴルゴダの丘で処刑され、そして・・・。みなさんが知っている話です。限られた空間の中だけでカメラはまわり、イエスはなぶられ続ける。その痛さからは小泉首相じゃないけれど目を背けたくなります。だけど観てしまう。決して目を逸らすことなく。作品ではイエスの心が揺らぐとき、その後ろには悪魔が見えます。しかし最後には己の悪魔に打ち勝ちます。イエスは許しを請う。それは自らが虐待をする聴衆にではなく、自らに虐待を行う聴衆を神に対して許しを請うのです。「神よ、この者たちをお許しください!」僕も以前は他の人がそう感じるように「宗教なんて・・・」と考えていました。例えばカインとアベルの話を聞いても絶対に納得できなかったし「神を信じる者が何故争いを起こす?」とその矛盾を支持することはできませんでした。でもそれなりに僕も社会に出て多くの納得できないことや、矛盾に突き当たったことによって、段々と「世の中は決して白黒付けられるものだけではない」という考えを受け入れられるようになっていきました。子供のころは自分が正しいと思うことはみんなが正しいと思っていると受け止めていました。自分の考えの中には他者の考えは存在していなかったから。当然、世の中の人は反発し合います。正義を振りかざして相手の正義を非難する。それは矛盾そのものです。だけどそれを受け入れなければならない。聖書がもし矛盾なく白黒を付けているものならば、その聖書自体が矛盾しているのです。社会に目を向ければ矛盾しかない。だから宗教はそれを説いているのだと思うのです。自己の弱さは、イエスのように普通の人は払拭できないでしょう。だけど皆、自分の中の悪魔を振り払いたいと思うはずです 【ひろすけ】さん 9点(2004-10-29 23:29:49) (良:1票) |
5.一人の人間が2000年間神として崇められる理由、神となった過程をこの映画で知りたかった。・・・が、なんじゃこりゃー!こんなのを見ると聖書なんか結局後付けで、人間が何かにすがるため無理やり作り上げた人なんじゃないのか?って思う。まぁ宗教なんかそんなもんだ!と思っている俺みたいな者は観てはいけない映画だったと終わってから気づいた。 【モチキチ】さん 0点(2004-05-23 06:58:40) (良:1票) |
4.イエスを拷問する兵士の残酷さを「あそこまで残酷になれるのか?あんなに笑えるのか?」と疑問視する声もあるようだが、残念ながらなれるのですよ我々人間は・・・・・。でなきゃ、アウシュビッツで行われたことなんて説明できない。毎日、1万2千人もの人間を殺すなんてことは、その行為に意義と情熱を感じ、綿密な計画性と冷静さ、几帳面さがなければできるものではない。恐ろしいのは、それがどれほど残虐な行為であろうと、人間はそれを「正義」だと心底信じられることだ。我々人間が、そんな愚挙を、限もなく続けていることをイエスと聖書は、とうに見抜き、喝破していたとも言えるであろう。見てよかったと思う。信仰心の特に無い僕でも素直にそう思えた。ただイエスが奇跡を行ったり、悪魔が出てきたり、最後やはり復活するところを見てると、このイエスの描き方は僕には説得力に欠ける部分もあった。遠藤周作さんの「イエスの生涯」で描かれる、どこまでも無力で、それであるが故に胸を打つ、イエスの姿のほうが本当では?と思う。 【ひろみつ】さん 9点(2004-05-04 22:07:32) (良:1票) |
3.この映画は暴力的で、自制心に欠ける。また、聖書にない描写があって、非常にうるさい。特に冒頭の、イエスが実際に傷を治す奇跡を起こすシーンは、不要なので削るべきだ。この映画を観て、あらためて文字の力を実感した。聖書を何度も読み返し、イエスの苦悩やマリアの嘆きや弟子たちの弱さ、ローマ兵の残虐やユダヤ祭司たちの醜悪さに触れる。男の弟子たちは逃げ、女の弟子たちだけが処刑の場を見守っていたこと。偶然に通りかかってイエスの十字架を共に担いだクレネ人シモンのこと。後に初代ローマ教皇としてあがめられるペテロがした、3度の否認のこと。十字架の下でさいころに興じていたローマ兵のこと。そして、イエスの言葉。すべてが短い描写だ。けれど読むたびに、人の弱さと醜さと強さと優しさについて考えさせられる。ほんの一行の描写について、あとから気が付くことがある。私はキリスト教信者ではなく仏教徒である。だが、聖書の持つ強さには敬服する。そして、キリスト教徒たちが制作した膨大な絵画についても感嘆する。有名無名を含めて膨大なキリスト教の絵画と並べたなら、この映画は、単にその一つに過ぎないような気がする。聖書の持つ普遍的な強さはない。映像と合わさることによって、心に響いてくるイエスの言葉はあるけれども、そう考えるには、この映画の方向が何か違う。私はこの映画を観ていて、フランス映画『ゴルゴダの丘』と比較してしまった。ほぼ同じ部分を描きながら、両者の印象はだいぶ違う。白黒とカラーの差異だけでなく、監督の精神のあり方だと思う。 【ルクレツィアの娘】さん 3点(2004-05-04 11:44:01) (良:1票) |
2.まず一言、監督が何を言いたかったのか分からない。この映画はキリストの悲惨な殉職を描いたドキュメンタリー映画なのか?監督ギブソン自身は敬虔なクリスチャンだということだが、ならば彼が何を目的にこの映画を創り、映画に表現したかったのが何だったのか。タイトルのとおり全ての人を救済しようとしたキリストの受難を描きたかったのなら、単に凄惨な肉体的苦痛を被った部分をリアルに描いただけの底の浅い映画に見えてならない。聖書をちょっと読みかじった程度のクリスチャンではない私が言う資格はないのかもしれないが、聖人たるキリストを描きたいのならば、その死に様だけにスポットを当てるべきなのだろうか?キリストの受難とは、キリストが全ての人を救わんと一身に罪を負い十字架にかけられたというその意味とは、その凄惨な死に様だけに象徴されるような底の浅いものではないように思う。下のレビューにもある通り、世界中の多くの人々の聖人とされる人物をこのように描く必要がどこにあったのか理解できない。 【six-coin】さん 3点(2004-05-03 01:47:16) (良:1票) |
1.《ネタバレ》 う~ん、なんだろう?この映画。歴史的事実を映画化するするときによく陥りやすい失敗をしてしまったような気がしてならない。確かにキリストの死というのは歴史上、大きな出来事であったとは思うが、逆にそのテーマがあまりにも重いため内容が完全に負けてしまっている。この映画で見ることができるのは、ただキリストが散々痛めつけられている姿だけ。何もあそこまで見せなくてもと思うほどリンチの嵐で、そりゃあアメリカ人のばあちゃんやブラジル人の牧師も死ぬわなと思うほど壮絶なものだ。この映画を見ているときにメル・ギブソンってユダヤ人に恨みでもあるのかと一瞬思ってしまうほどだったし、そこに意識が行きすぎているからこそ内容がすっからかんになってしまったんじゃないかなと思う。しかしアメリカの映画館では観客のほとんどが泣いていたのは少々驚きだ。たぶんそれは絵的に痛々しいということではなく歴史上の事実を改めて考えさせられたからであろう。私も思わず泣きそうになってしまったが、それは単に暴力描写があまりにも痛々しいからであって、その辺がキリスト教を信仰している人達との違いであり、私がこの映画に感情移入できない理由でもあった。よって個人的な評価はキリストには悪いがあまりいい点数は差し上げれません。そう言えば一緒に観に行った看護婦の女の子が言ってたなあ…、「人間はあんなに殴られたら普通死んでるよ」やっぱりキリストって人間を超越した存在だったんだ…。 |