《改行表示》 7.《ネタバレ》 「内容が理解不能」という趣旨の批判も多い作品だが、宮崎はそもそも内容など重視していない人であることを忘れてはならない。 以前NHKスペシャル「終わらない人~宮崎駿」の中で彼は 「ストーリーなんてどうでもいい。場面を見て『あ~すばらしい』って。それがいい映画だから。自分が好きだった映画はみんなそうだったから」と発言していたが、「ハウルの動く城」はまさにその通りである。 ”印象的なシーン”を数珠つなぎにした作品、それが「ハウルの動く城」。 それはまるで、ガンコおやじがいとなむ、メニューや価格が決まっていない独善的な料理屋のようなものだ。 その店の方向性やガンコおやじとソリが合わない客がいたとしても、その店の価値、存在意義そのものに何の変わりはない。 しかしあえて言おう。私はストーリー的にもこの映画が大好きである。 メッセージ性もある。それは 「自己肯定観って大事」ということ。 否定的な人達の意見として多いのが ”なぜソフィーは老婆になったり若返ったりするのか?”だが 彼女はそもそも<老婆になる呪い>にかけられたのではなく<自己否定している時に老婆になる呪い>をかけられたということを理解しなくては。 ケバい母親や、モテモテの姉が登場する意味が分からないという批判もあるが、彼女達は 「ハデな服装なんて私には合わない」「私なんてどうせモテない」というソフィーの自己否定感をより際立たせるために、対比として登場していることを理解しなくては。 (だからこそ、鑑賞者が「ソフィーって母や姉と大違いの劣等感の塊なんだな」と理解した後は、彼女達は用済みであり、後半には一度も出てこないのである) そしてソフィーが老婆になったり若返ったりする理由は <自己肯定観が強まる時や、眠っていて自己否定の意識そのものを本人が感じていない時だけ若返り、自己否定観が強まると老婆になる>なのである。 もっと細かく言えば、自己肯定には<素直に恋をしている時>という事も含まれる。 サリマンの前でハウルをかばう時や、「未来で待っててー」等、全力でハウルを意識しているときだけ若返るのはそれが理由だ。 ハウルがソフィーに花畑を見せた時にも若返るのは、男から花を贈られて素直にときめいている証拠。 しかし直後に「ソフィーはきれいだよ!」とハウルが言った途端、老婆に戻ってしまう。(「私、どうせきれいじゃないし」という自己否定が出た証拠) 中盤で若返りと老婆が頻繁に繰り返されたのは、自己肯定観の不安定さの証拠であり、後半になったらほぼずっと若返りしていたのは、自己肯定観がしっかり根付いてきたという証拠である。 ハウルの存在も、ソフィーが自己肯定観を育てていく上で必要不可欠。最初はぎこちなく関わっていたマルクルやカルシファーも、彼女の揺れ動く自己肯定観とのせめぎあいの中で、次第に心を通わせていくのは微笑ましい。 カブも、終盤で壊れ行くハウルの城のブレーキ役として役割を果たす上で、脇役ながら重要キャラであるが、彼の魔法が解けるためにも、ソフィーの自己肯定観が必要だったことを思えば、ソフィーが自己肯定観を得たことで 【みんな、ハッピーエンド】となり、実に上手にまとめあげられたストーリーである。 また、カブが王子に戻ることは、ソフィーの自己肯定観が自分自身だけでなく、周囲をも助ける力になるという事を示している。 このエピソードは、我々が自己肯定観をもっともつべきだし、それが自分だけでなく周囲の力にもなるというメッセージだ。 ちなみに突然90歳になったソフィーがあっさり状況を受け入れるのは不自然だという批判もあるが、彼女はそもそも、恋するトキメキも若々しい快活さもない、おばあちゃんみたいな性格であるのだから「ちょっとやそっとのことには驚かない」のは当然なのである。 ソフィーは、老婆になってもすぐに気持ちを切り替え世捨て人になる自分を「年をとるメリットだ」みたく感じているが、老婆になる呪いはあくまでも、見た目だけで、性格は若いソフィーのまま。 私は老婆までは行っていないが、少なくとも10代だった頃よりあきらかにハラが座っていて、ちょっとやそっとのことでは大騒ぎしない(そういうことにパワーを使うのは無駄と悟っている)ので、ソフィーの落ち着きっぷりに何も不自然さを感じない。 批判者は、そこに注意しつつ再鑑賞してみは? 【フィンセント】さん [CS・衛星(邦画)] 9点(2017-07-21 08:46:39) (良:4票) |
《改行表示》 6.《ネタバレ》 主人公のソフィーは、映画の中でいつも「家事」ばかりしている。帽子に刺繍を施したり、散らかり放題の魔法使いハウルの“動く城”を掃除したり、買い物にいったり、料理をしたり、洗濯物を干したり。…そういったごく「日常的」なあれこれを、たとえ90歳の老婆にされても変えることなく続けていく。 そして宮崎駿監督は、このソフィーの「家事」に対立するものとして、「戦争」を持ってくるのだ。日常生活をやがておびやかし、破壊してしまうものとしての「戦争」。その時「魔法」とは、戦争の“道具(!)”に他ならない。…ハウルたち魔法使いが、国の軍事面をつかさどる者たちとして描かれていることを、ぼくたちは重く受け止めねばならない。まったく、『魔女の宅急便』の愛らしい魔女との、何という違いだろう! だが映画は、掃除し料理を作り続けるソフィーの「勝利」によって、幕を閉じる。彼女の「家事」によって、ハウルが、荒野の魔女が、火の悪魔カルシファー(見かけは可愛いものの、いうまでもなく「火」は使いようで脅威に成り得る…)が、少年の魔法使いが、案山子男(かかしではなく、出来れば“あんざんし”と読みたい・笑)が、ひとつの“家族”となってまとまり、「魔法」を、戦争ではなく日常生活を守る・取り戻すための「道具」とし、遂には「戦争」そのものに打ち克ってしまうんである。 …そう、どんなに強大な力も、「家事」に代表される人々の生の営みの前には敗北する。歴史上に現れたいかなる王国や帝国もいつかは滅び、けれど人々の「生活」はどんな時代にあっても連綿と続いてきたのだ。それを言うために、映画は、ソフィーたちの生活の細部(ディテール)こそを丹念に描いていく。そこにはもはや、戦いの愚かさを訴えながら逆に「戦い」を魅力的(!)に描いてしまう(たとえば『ナウシカ』…)宮崎作品の抱え続けてきたアンビヴァレンツ(二律背反)はない。平凡な日常の繰り返しのなかにある生きることの喜びや、愛することの素晴らしさを、優しく、少しだけ照れ(?)ながら肯定するばかりだ。 前作『千と千尋の神隠し』に続いて、ぼくはこの作品もまた、(多くの方々が指摘される「欠点」にうなずきつつも)その「世界観」ゆえに心から共感し、愛したいと思う。 【やましんの巻】さん 9点(2004-11-30 15:19:35) (良:2票) |
《改行表示》 5.《ネタバレ》 遅ればせながらテレビで初視聴。すばらしい映画でした。物語の構造は『千と千尋』によく似ているし、作品のテーマは『風立ちぬ』にも共通している。そのテーマを一言でいうならば、「人生への悔恨」と「文明への悔恨」ということに尽きると思います。 荒れ地の魔女は、悪魔と取引をした魔女です。一方、サリマン先生は、人間と取引をした魔女です。悪魔が「恋と若さと美しさ」(すなわち心臓)を切望するのに対して、人間は「文明による支配」(すなわち戦争)を切望している。そしてハウルは、ハクが湯婆を裏切ったように、サリマン先生を裏切っています。その意味では、文明批判の物語であるようにも見える。 しかし、文明の繁栄を選ぶにせよ、人生の幸福を選ぶにせよ、それぞれの過ちがあり、後悔があるのですね。湯婆のもとへ行けば「文明への悔恨」があるでしょうが、銭婆のもとへ行けば「人生への悔恨」が待ち受けている。それと同じです。 『ナウシカ』に立ち返って考えると、映画版では「文明の悪」を否定したかに見えるのに、原作では、むしろ「文明の悪」をも肯定したかのように見えます。「人生の悪」を受け入れるのと同じように「文明の悪」をも受け入れるのだとすれば、人は悔恨のなかを生きるほかありません。人生をやり直すことはできないし、文明の歴史をやり直すこともできない。 この映画は、まるで魔法のようなハッピーエンドに終わります。しかし、それがありえないほど哀しいファンタジーであることを誰もが知っている。この終わり方は、ほとんどクストリッツァの「アンダーグラウンド」と同じです。ほんとうのところは、やはり『風立ちぬ』と同じように、人生と文明についての痛切な悔恨の映画なのだろうと思います。 【まいか】さん [地上波(邦画)] 9点(2021-04-04 13:41:50) (良:1票) |
《改行表示》 4.老いた感性を持つ者だけがこの映画を味わえる「舌」を持っていると言えるのかもしれない。老いて初めて気付く過ぎし日々の美しさや尊さを描いた類稀な映画である。未来に心を馳せる若人には何を描いているのかテーマを共感して楽しむことは困難であろう。ただ表面的なストーリーを追いながら、ただ映像を見せられているという感を持たざるを得ないであろう。 人生を振り返ったとき、自分の歩いてきた道程とこれから自分に残された意外に残り少ない時間に気がついたとき、この映画を見直してみるといい。 【小鮒】さん [映画館(字幕)] 9点(2005-11-15 22:14:52) (良:1票) |
《改行表示》 3.《ネタバレ》 流星の野原で未来のソフィーのヴィジョンを見た時から、実はハウルは「あの少女」をずっと探していたんだろうなと思った。町中で軍人2人に絡まれているソフィーを助けたのは、実は「やっと見つけた」というハウルのナンパだったのだと解釈。 空中散歩に連れ出して自分に惚れさせたのも、掃除婦さんとしてやって来たソフィーの眠る姿(少女)をじっと眺めていたのも、そういうことなら納得できちゃうし。 そんな風に、自分流にアレコレ想像しながら観ることができて非常に楽しかった。結構辛口コメントが多いので驚いたくらいですが、これはこれで宮崎氏らしくて素敵なのではないでしょうか。印象としては可愛いピンクのコットンキャンディのような作品です。 強いて言えば、コットンキャンディを過剰宣伝でゴージャスなケーキのようにラッピングしたことと、大作っぽいテイストを出すためか、不必要に戦争エピソードを膨らませた2点が罪。あんなことやらなくても良かったのになあと思います。 【べあとりーちぇ】さん 9点(2004-12-02 09:43:49) (良:1票) |
《改行表示》 2.《ネタバレ》 一回目の時は池袋で、前から二列目の右端の席で、ほとんどスクリーンが見えずじまいで、物足りなさを感じ 『せっぱつまってくると、作り手はたまに妥協することがある。誰にも分からないことなのだが、宮崎監督が本当につくりたかった作品になっているのだろうか。監督は本当にやりたいことはやりきったと感じているのだろうか。2時間に収めなければならないという作品とはあまり関係ない価値観にとらわれていなかっただろうか。2時間に収めるためには多少説明が無くても、「いっかー、これくらいが新しい表現なんじゃん」と妥協していなかったか。でもラストくらい分かりやすく説明しておくかといって、カカシに自己紹介させたり、王妃に「ハッピーエンド」と言わせたり、堂々とキスらしいキスをさせたりしていなかったか。 2時間という枠があっという間だった、言い換えれば短すぎた。あの世界にいつまでも浸っていたかった。鮮やかでミラクルで本当に居心地が良かった。だからせめてもうあと30分ぐらいかけて、じっくり進めて欲しかった。たとえばレンタル開始になったらビデオ2本組になるくらい。ばかげた戦争の惨禍の中で、心の重さ、熱さ、そして一人の女の子の想いの変化を描いた映画は、二時間半の巨作にたる映画だと思う。』・・・という感想を書きました。 昨日、六本木のステキな映画館で、なかなか見やすい位置で、もう一回観てまいりました。そしたらもうすごく感動しました。始まりの空中散歩で、ジブリならではの浮遊感を味わっている時に「戦争の大義や呪いのその後やカルシファーの正体とかとか、説明が足りないと世間では騒がれている」ことを思い出し、事実僕もそこを時間不足と言って物足りなさを感じていたことを思い出しました。そこで「ではなぜこの空中散歩は認められているのだろう。これこそ非物理的だし説明も何もされていないじゃないか。」そこで「いやいや、これはファンタジーなんですから」と気付きようやく「じゃあ戦争だって呪いだって空中散歩同様みんなファンタジーなんですから説明なくとも受け止められるはず」と悟りました。おかげでこの映画の楽しみ方どうりに楽しめました。固い頭は一種の呪いなのかもしれません。そして、六本木のバージンシネマ最高! |
《改行表示》 1.やっぱり賛否分かれるようですね、この映画。私個人としてはとても楽しめましたです、はい。宮崎映画特有のあの映像美、そして久石譲の音楽にのっけからやられてしまいました。『♪人生のメリーゴーランド』でしたか、あれは名曲ですね~vvでも倍賞千恵子の歌はあんまり合ってないように思えてしまいました(すいません…)。 さて、内容ですが、私もやはり「んんっ?」と思う場面は多々ありました。ソフィーのお母さんが何故あんな行動をとったのかがいまいち分からなかったし、ソフィーも何故あんなにちょくちょく老けたり若返ったりするのかもよく分からなかったです(私がバカなだけなのかな…)。原作もあんなカンジなんでしょうか?さらにあのカカシのカブにいたっては、ラストで思わずコケそうになりました。。。 しかし、全体を評価するとなると、やはりこれは素晴らしい、という結果にいたります。だって私泣きましたもん…!それに階段のシーンでは爆笑させていただきました。これでいいんじゃないでしょうか。笑って泣けて、感動して、それがジブリ映画の魅力なんですから。 で!!!ハウルですよ…!!!もうめっちゃツボです!!ハウル素敵すぎっ!!何ですかあの美しさは!!犯罪だ!しばらくハウル熱が下がりそうにありません。木村の声も凄くマッチしていて、本当もう最高でした…。仕方がないので待受画像探しに逝ってきます(死) 【Ronny】さん 9点(2004-11-21 23:31:51) (良:1票) |