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シン・ゴジラ: 悪かったとこ、良かったとこ、刺さったとこ相当なリサーチをしたと思われるシン・ゴジラ。
だが、専門知識を駆使しているがゆえにズッコケた個所がある。 「世界のスーパーコンピュータを並列につなげて」 ガタッ!(←テンションが50%下がった音) 「京」クラスのスパコンはもう全部カスタムなんだよ! 同一システムの中でも同期取るの大変なんだってば! センターを超えた距離でバスをつなげてスパコンの性能を維持するのは無理だって! しかも計算理論のトレンドはもう10年前から Map/Reduce に移行してる。つまり、異なる性能・異なる通信速度のマシンを束ねて計算する(問題を分解する)のに軸足が移っている。ここはもう、間違いなく、各国のスパコンをあてにするんじゃなくて、クラウドコンピューティング(ここでのクラウドは雲の意味じゃなく群衆、インターネット上の有象無象のPCの処理能力をかき集める計算法)を駆使して世界のみんなでゴジラの謎を解こうぜっていう流れだと思うんですよ。 スパコンのハードウェアアーキテクチャ方面でも、GPUマシン(グラフィックCPUの超並列処理能力を計算に利用する奴・これがまた日本の得意分野)が台頭してきていて、立川移動後、PCの在庫をかき集めてこの方式で低価格スパコンをでっちあげる方法もあった。 《官》にだけリサーチかけた結果と思われる、ワキが甘くて惜しかった部分でした。 一緒に見に行った友人が言ってたんだけど「主人公が最初に、あの場で巨大生物を主張しちゃうのはどうなの」。 まあ、『治世の奸臣』って奴だよなあ…。 良かったとこ。 徹底した官僚目線から描いた点は、「本来ゴジラはそうじゃなきゃ」という想いを新たにした。眼帯かけた博士が自分の事情でドラマするようじゃダメなんさ。 一般人はおろか、現場の顔もほぼ見せない。その上で描かれる226、国家総動員、ポツダム却下、その他諸々の既視感あふれる政治状況…『日本の一番長い日』という評が多かったけど、本来そう描かなきゃならなかったのを今さらながらにやり直した遅すぎ感が出まくっている。これは84年版ゴジラが80年代にやるべき課題だったと思う。 ゴジラはたぶん、商業映画で日本政府が唯一本気の仮想敵にしても許される存在で、そういう架空戦記的な側面は今まであるにはあったけど、今回初めてクリアできた感じ。 そのテーマの良し悪しはまた別だけど、庵野独特の「虚構と現実」すらも上から見切っている目線が画面上に必ずあって、片方はビシッとエリを正してお行儀よく、もう片方は渾身の力を込めて吠え、神に抗っている。その様が、何とも泣ける。 最近観て、まだレビューしてない映画に『ノーカントリー』があるんだけど、あの映画を観る感覚に近いと思う。せんじ詰めれば、ミヒャエル・ハネケ風の画面づくり。そういう軸で斬ってみると、虚構とは映画自身の事であって、現実は観客自身なのかもしれない。 ゴジラが生物として放射性廃棄物と同居できてる仕組みは良かった。歴代ゴジラ映画で《SF》の看板をつけることができる、初めての設定じゃないかな。 んが、「完全生物」っていうコンセプトはなんかねえ…。 石原さとみが酷かったという評が多いけれど、あれは役者の問題じゃなくて、カヨコ・パタースンっていうキャラクター設定自体に無理があって、演じようがなかったんだろうと思う。明らかに米国も日本も持て余してるし、ああいう特別な個人が活躍できる枠組みの映画じゃない。たぶん、きっと、監督も持て余したんじゃないかと思う。 ここらへんの、初期コンセプトを引きずった部分の飛び方が、パタースンにしろ「完全生物」にしろ、現実からの乖離が激しくて、コンセプトの煮詰めはしっかりやったけど早撮り・剛腕で押し切ったな的な未消化感が残る。 あのゴジラは普通に考えて完全生物じゃない。生物から寿命のリミッターを外して、環境からの様々なフィードバックが、眠れる遺伝子にも影響するカオティックなサイクル(普通の生命ではこの部分を生殖が担っている)に再設計された、無限可能性生物(最近流行のエピゲノムってトコなんでしょう)。一言で言って生きるレゴのような奴だ。 ちなみに現実世界だと、もっとペースはゆっくりだけどグレートバリアリーフのサンゴ虫たちはそうやって死なずに進化してきた。個人的にはあの段階的進化はさほど空想的・ナンセンスじゃない。 全くもって小説的な、「何がどういう理由でこうなるんだ!」という説明に特化しまくったドラマは良かった。 本来ゴジラが属していたのは、(原作の一人である)小栗虫太郎の「秘境探検もの」ジャンルのSFだ。起源はコナン・ドイルの「失われた世界」。 このジャンルは、サファリスーツ一丁でチャレンジできるお手軽設定の代償として、送り手には膨大な知識量とその整理・提供を要求される。圧倒的な情報で読者を叩きのめす秘境描写を用いて、怪物たちが跋扈する様を現実であるかのように描き出すのが特徴。『キングコング』も、『黄金バット』も、この枠組みを使った。 今回のゴジラはこのスタイルへキチンと原点回帰した。原点回帰であるからして、チャレンジャー博士のような「観客に説明してくれる天才博士」が必要なんだけど、それをほぼ全員が全員のセリフでやる。「片桐はいり以外全員、一度は説明セリフを吐いたんじゃねーか?」ってぐらいの勢いだ。 そこまでの情報量でもって、やっとゴジラという生命の輪郭あたりが見えてきた感じ。もちろん、相対する日本政府の諸々の説明も必要なので、バランス的にはあれでやや限界感があり、もっと深堀りするのは難しそうだ(が、巨災対のメンバーが明らかにする内容だけでも十分SF的にエキサイティングなので、映画一本分の情報量としてはいいところか)。 ゴジラという無理やり感の強い存在は、巷にあふれるナゾ本が示す通り、長くて面倒くさい設定という呪文がなければ、本来画面上には呼び出せないはずなのだ。秘境もの・怪獣ものの原点たるべくこの儀式をキチンとやったのは、世界の映画史・SF史に1ページを刻む画期だったと思う次第です。 ささったとこ。 さて…ここからが長いんだよな…困ったな…。 実は84年版ゴジラを観た時に、あまりのガッカリで「いやあ、自分だったらこう撮るよなあ」とつらつら考え続けていた『自分ゴジラ』がありまして、今回の『シン・ゴジラ』はかなり近い…というか双子と言ってもいいくらい似てた。初見なのに全く感動がなく、冷静に分析しながら観れたのはそういう事情が大きかったです。 大きく違うのはねこ版では日本沈没的に国を切り売りしてしまおうとする政界上層部の動き(に対抗する巨災対みたいなゴジラ研究機関)と、シンゴジではチョイ役だったブンヤが第二の主人公になって博士探求の過程で被災者視点を担うとこ。 この2点の処理の違いが決定的になって、レビュー時、オイラの立場的には「『シン・ゴジラ』は評価するけどシンパにはならん。矢口蘭堂を非難する対抗馬は絶対必要だ。上映時間があと40分伸びそうだけど…」というスタンスに落ち着きました。 …続くか、次の記事に回します。 |
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