SCAT/くちずさむねこ(2007)

 

ジョーカー(2019年【米】)

お久しぶりです。
観た、という事を書かずにはいられなくて書きにきました。
ジョーカーの物語ですが、あまりジョーカー自身は気にせず、ゴッサムの街を見てました。
もう最初から狂ってるし、最後はどうしようもないほど狂ってる。これ、ゴッサム自身の病巣を描いた映画と見て、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』との類似点を探して行くと面白いです。ジョーカー、という名前のある悪人の物語じゃなくて、名前を持たない群衆のピエロの物語。
主人公の狂気に物語の全てを追わせるのは酷すぎる。これは狂った街の狂気が牙を向く瞬間までを描いた、名もない者たちの俯瞰じゃないかと思います。
だから平たく乱暴にいうとカラフルなゴッサムの『ヴェルクマイスター・ハーモニー』じゃないかなと。本気で思います。
評価:8点
鑑賞環境:映画館(字幕)
2019-10-14 21:58:25 | 実写作品 | コメント(0) | トラックバック(0)

コードネーム U.N.C.L.E.(2015年【米・英】)

面構えの話ですが、鋭角的なソロに丸いイリヤ。それって絵的にどうなのよ。
…っていう違和感というか不満が冒頭から炸裂し、まったく作品にのめり込めませんでした。残念。

角を立てず、何でも密やかにオシャレにスパイ稼業をこなしていく、《柔》のソロ。
超優秀で仕事は速く、べらぼうにタフだけど空気読まずに暴れまくる《剛》のイリヤ。
この対比でオリジナルの魅力が出来上がってて、そこにロバート・ボーンの顔とデヴィット・マッカラムの顔がかぶさって 0011 の世界が完成するわけで。

この対比のメリハリは新作では大幅にトーンダウンし、イリヤの性格付けに子供時代のトラウマまで持ち出す始末ですよ。
当時のスパイものに出るソビエトの特務機関員は、背景なんて語らなくてもみんな人心を殺した冷酷なロボットだっていう合意はできてると思うよ。
何でそこにメス入れてムダな潤色した上に、ご丁寧な心理描写まで入れてしまうんだか…。
イリヤの行動規範はソビエト仕込みの明快なモノで、個人の生い立ちなんて要素は入らない方がいい。絶対にいい。

対するソロはちょっとダメダメ感のあるのが持ち味なんだけど、割と完璧なダンディをこなしちゃってスキがない。
そもそもスーパーマン役のヘンリー・カヴィルを持ってきた時点で完璧感が漂いすぎ、「いやここはむしろベン・アフレックの出番じゃねーの?」とか思います。

西か東かってだけじゃなく、いろんなモノがキッパリと色分けされていた60年代。
その空気を思いっきり殺して柔和にして、重厚でスピード感あるけどカラーに欠けたアクションを挟んで、すべてが程よく調和のとれたエンターテインメントに仕上げられた結果、オリジナルに抱いていた凸凹コメディみたいな魅力が消え去っていました。「最近よくある出来のいいリメイク」以上の感想が出てきません。
これは、単独の映画としての評価じゃなくて、リメイク・原作つきゆえの評価だから不当とは思うけどね。
やはり、主役の二人の顔でガクンと評価を下げざるを得ませんでした。すまぬ。
評価:6点
鑑賞環境:インターネット(吹替)
2017-06-11 23:40:58 | 実写作品 | コメント(0) | トラックバック(0)

心に残るあのシーン・序

映画を精力的に観なくなってから、8年くらい経つ。
元々は、3~4年くらい真剣に観すぎてた結果、視力がガクンと落ちたのにショックを受けたからなんだけど。ほぼ指と目が商売道具と言っていい業界なので、「テキトーに観て量をこなすくらいならやめる」って思ってました。
ところが、映画を観るのをやめても、意外に覚えてるシーンは覚えてて、それが名場面かというとそうでもなく、その映画の本質部分を見抜くためには、ある程度時間をかけて「自分が観たもの」を探っていくコトが重要、というのがわかってきました。

例えば。
今でも悩み続けてる筆頭のシーンが、『佐賀のがばいばあちゃん』で主人公が食事を終える場面。
とにかく、さらに残ったサンマの食べ方が汚い。
普通の映画なら、キレイに残ったサンマの頭と背骨だけにするだろうし、そもそも魚を食卓に上げない選択肢もある。だから、ここは「あえてやった」と考えるべき絵作りです。
ところがこの作品のばあちゃんは、そんな甘いしつけをするような人間とはとても思えないヒトです。対外面とかの礼儀とかは置いといて、筋はキチンと通すお方。映画中の他のシーンで暗示される情報から推測するに、多分、この家は町の名家。しかもおそらく士族の家系で、戦前は町内で慕われる立派な家柄だったはずだと思っています。それが戦後の農地解放やらで零落していき、磁石を腰に結んで表通りを歩く姿に…町の人々が、ばあちゃんを直接助けられないけど主人公には過剰なほど優しく接する理由の一端が、そこに垣間見えるわけです。
この、全編に渡って無罰的な、不幸の中の幸福を浮かび上がらせる構成の物語の中で、あのサンマだけが、居心地のいい零落名士の世界を汚している。しかも間違いなく、監督の計算づくの意図的なやり方で。
そこの意図がわからずに、今でもサンマを食べるたびに、あのシーンを思い出し、監督の配した仕掛けの意味を何とはなく意識下で探し求めています。

そういう、何年たっても脳裏から離れない、自分の映画記憶のトゲのようなシーンをこのカテゴリーでまとめていく予定です。
しっかし本当に、全然たいしたコトないお子様向け映画『佐賀のがばいばあちゃん』に、10年も悩ませられ続けることになるとは。
当時は予想もしなかったですよ…。

インセプション(2010年【米・英】)

何か月ぶりかの2連休で「さあ映画でも見ようか」というタイミング。最初は『イーグル・アイ』を選び、タイトルが入る前に「いや違うな」と思い直して『珍遊記』を選び、1分見て「予想はしてたけどやっぱりおゲレツ」と思い直し、ずっと以前から課題にしてあった本作をポチっと。
正直クリストファー・ノーランはあんまり好きじゃなくて、あの、適度に複雑な構成はいいんだけど、グッと拳を握りしめたくなる何かが欠けるとこが、致命的に点を落としてきた(『ダークナイト』での、本当は主軸になるべきトゥーフェイスの軽い扱いとかね)。
でもこの『インセプション』は、そういうノーランの欠点そのままに、「最強の編集力」という得意分野で徹底して攻め切った潔さに好感を持ちました。

ズバリ、前半はハリウッド流の『隠された記憶』(本作の5年前に製作)。夢と現実を区別しないカッティングで、画面が切り替わるたびに「これがリアルなのかフェイクなのか」という問いを発し続け、結果的には観客の脳内に異様な緊張感が持続するようになります。まあハネケはノーランがやった数百分の一の予算で同じ緊張感を醸したわけですが、エンターテインメントじゃないからね、アレは。
ちょっと話はズレるけど、コーエン兄弟の『ノーカントリー』もハネケ作品を意識した結果誕生したと思ってまして(ハネケ翁はタランティーノやロドリゲス作品に批判的なので、それへの反感とチャレンジ精神があると思います)、2000年を過ぎてからのハリウッド映画の新語法になってるよなあハネケ翁…とか思います。
自分映画鑑賞史的にも、『隠された記憶』以前/以後というラインがあるのを、本作の鑑賞でまざまざと思い起こさせてくれました。一度映画に没入したら、全シーン・全カットを記憶に留め、映像のはるか上層で監督と対話し続け、画面の意味や意義を汲み取っていく…ただの受け身観客・ケチ付け要員から、それができるようになったステップアップが、ハネケ作品体験で起こったコトだったと思います。
いや本作は別にハネケと直接的な関係はないので、ただの余談ですが。

後半。
4層の夢が平行にカッティングされる様は、まさに「21世紀のイントレランス」という感じで、大嫌いなあの作品もこういう大仕掛けの下に作られていれば傑作になったんだろうなあ、としみじみ感じました。別にサイコダイビングなんて設定じゃなくていいんです。これは話中話、入れ子状になった物語構造を横串で突き通す、そういうイベントの世界間横断の力が凄いんです。
しかも、最初の夢から「もうこれダメじゃね?」っていうような失敗フラグが立ちまくり、そもそも冒頭でやんわりとサイト―が陥った絶望的な状況が示唆されているわけで、このあたりの絶望感も、いい意味で物語の足を引っ張って、緊張感を出してくれてました。

減点理由は、

ざっくり計算で200年の時間を孤独に過ごしたはずの、コブのアドベンチャーっぷりが描かれないコト。
ここは十分壮大な展開のはずなんですが、ノーランの性格からするとここは気付きながらもあえてパスしたんだろうな…と思います。なんでかこう、小ぢんまりとまとめたがる御方でです。
やっぱり性には合わないんだよなあ、根っこの部分では。

役者はノーラン作品だけあって、全員安心の出来。音楽も非常によろしい。
いつか『インターステラー』に進んだ時には、このあたりももう少し踏み込んでみようかな、と。

こっから下、もう明らかなネタバレになるのでネタバレ有無変更しました。

あっれー?
またまたみんなのレビュー見てて気になる点が…。
「夢の中に入って云々」っていうSFな設定自体が、夢の産物じゃないかってコト、ほとんどの人は不安に思わんのかなあ。
その不安とともに劇場を後にさせる点が、この映画の醍醐味じゃないかと思うんですが。
まあディック系の作品(『わが涙流れよ、と警官は言った』あたりが特に)読み慣れてないと、アレなのかもですが。まさに本作と同じ『死の迷宮』っていうディック作品があって、もうラストは「夢の方がよかった、でももしかしたら現実だって」という宗教的な救いに行っちゃうあたりがすんごい泣けます。そこらへんを意識して観るか観ないかで、鑑賞中の緊張感がガラリと変わります。あ、『マルホランド・ドライブ』も同じかな、夢/現実の切ない対比って意味では。
「もう一層上の、コブの『真実』の姿はどうなのか」を想像しながら観ると、けっこうドキドキ・ホロリと来ますよ。
評価:9点
鑑賞環境:インターネット(字幕)
2017-03-05 14:49:16 | 実写作品 | コメント(0) | トラックバック(0)

君の名は。(2016)(2016年【日】)

ああ。秒5から随分経ったもんな。天を焼きながら砕け散るように新海誠愛を語らせてもらうよ、オイラは(苦笑)。

んで。まずは記号面から行きますか。この作品、まるで『テルマエ・ロマエ』のような美しさ(あ、ソコ笑わない!)を持ってますので。
…最初に断っておくけど、オイラは新海作品を「恋愛モノ」と思っていない。
恋愛は新海作品の骨になる要素だと思うけど、それは宮部みゆきがミステリ作家だというのと同じレベルの話で、要は観客(読者)を引っ張っていく《燃料》として「謎=ミステリー」「驚異=SF」があるように、男女の人間関係が利用されている、という風に見てる。

そこでまず、『秒速5センチメートル』を復習するところから入ってみたいかな。
アレのレビューでは、「空の物語だった、と断言したい」と書いた。
具体的に詳しくは書かなかったんだけど、第一話の雪、第二話の雨から晴れへ、第三話の快晴…と、世界はどんどん明るくなっていくように構成されている。それに呼応して、地上のドラマは子供時代の不自由さ・息苦しさ・世界の狭さがどんどん解消され、行動圏は広がり、自由が増していき、人間は空虚になっていく。地上のドラマの代わりに、空が代演してるわけだ。たとえば二話目のロケット発射シーン、夜天に広がる垂直の噴煙と巻雲、そしてその先の天、星々…これはあからさまに空がセックスシーンを代演していて、わかりやすい。
そして終わりの方の、掟破りな弾けっぷりで『秒速5センチメートル』とタイトルがデデーンと入る瞬間、画面は鳥の目線になって、空の中を舞い、世界を俯瞰する。
この作品は子供から大人への通過儀礼をバックボーンとして、それを特定のドラマで描こうとするのではなく、抽象画とも言える自然の光景で表現してやろうという狙いで作られた…と捉えて、今に至る。

そういう観方で今回の『君の名は。』を観始めると、最初にいきなり雲を突き破って星が落ちてきた。
ロケット打ち上げシーンの逆。もう少し観続けるとこの星が「ティアマト彗星」らしい、というのがわかってくる。ティアマトって創世神ですよ。『秒5』では大人世界を象徴していた宇宙を目指し、科学をいっぱい突っ込んで飛んでくロケットとは、真逆に近い立ち位置にあるもの。しかも後半になって観客は、それが山に囲まれた湖に落ちてくると知らされる。
絵的にはコレ宇宙規模の壮大な受精ショーとして観ることができて、その場所に暮らしている主人公が女性、という図式まで頭の中で出来上がると、『秒速5センチメートル』の真逆の記号の使い方をしているというのがわかってくるわけですよ。
ここで、雑然と散っていたいろいろなパーツが整理ができてくるんですね。
動かなくて静かなもの・ひっそりと目立たず佇むもの…そういう記号を、湖が、糸守町が、もっと一般的に田舎という土地が、主人公とその家が、伝統という名の思考停止状態が、背負っていると思います。もっと整理を進めていくとこれは古今の文芸作品が「女性」に割り当ててきた記号類でもあるわけです。
これに呼応して、華やかな・アクティブな・攻撃的で破滅的なものを象徴して反対側にあるのが、彗星であり、東京という大都会であり、イタリアンなレストランでのホール担当であり…。

そんな二者の出会いは死と破滅を生み出すわけです。普通に考えてね。ところが新海誠はここに、両者が建設的に出会える《たそがれ》という空間と、《愛》というモチベーションを置いた。
この出会いはご神体のある山の中で実現されるんですけど、実はもうひとつ三葉が父(この人は明らかに彗星側のキャラ)に会いに行くシーンでもリフレインされていて、絶望的な破滅から辛くも逃れる直接の引き金になるわけです。昼に瀧が会いに行った時には前向きな結果は出なかった。そこには男性的な衝突があったから、という伏線まで引かれていて。
だからこの、三葉と父が会うシーンで彼女の決定的な表情が描かれていないのは画竜点睛を欠いたなあ、と本気で落ち込んでます。減点理由はほぼここです。
そして、この不満は次のファンタジー面の考察でもリフレインしてしまうのだった…。


この作品、実は『インスタント沼』を彷彿とさせる豊かさ(だから、笑わないッ!)を隠しています。
糸守町が1200年前に隕石衝突にあったらしい、と作中で暗示されますが、序盤の授業シーンでは「万葉言葉が残っている」と言及されていて、過去の大災害を生き延びた人たちがいたらしいというのも、わかります。
さらに宮水家のご神体のある《あの世》空間も隕石孔が土砂で埋まったような地形になってて、いったい糸守の惨劇は何度繰り返されたんだ…と気にせざるを得なくなる。
つまり、本作で起こったドラマは初めてではないってコトですな。
1200年前に何が起こったかは伝承が失われてわからない、という設定が、時間モノのなかでは新味。土地自体が伝統の意味を再発見しなければならない状態で、観客は主人公ふたりと一緒に再発見をしていくコトになります。
ここで、宮水の神様は三葉を3年後の世界に送り込んで(しかも彼女の希望を聞いて都会暮らしのイケメンにまでして!)、何が起こるのか知らせようとしたはずなんですが、本作の主人公たちはドはずれのバカなので、糸守町の事を調べようとしない。このあたりの青春っぷりは、後から神様視点で考えると「そうとうヤキモキしてたはずだよなあ」と思いますね(苦笑)。
完全にどうにもならなくなってから、ようやっと瀧が動き出すわけです。この、後の祭り感。大震災にかぶらせるつもりでやってるはずですが、観客には相当堪えます。
そっからは何やらよくわからない《愛》だけで駆動する男が物語を担う事になり、足で歩いて伏線を回収しに行く。このあたりの非現実感を強調するのに、バイト先の先輩と級友をセットしたのは抜群に巧かった。古典的なゴーストストーリーのステレオタイプな道具立てをうまく再利用したなあ、って感じでした。新海作品としては、この長野行きの場面の喪失感が一番の醍醐味なんじゃないかと思います。

「メルヘンとファンタジーの違いは何か」という物語の歴史上すごく重要な問いがあります。
動物が普通に人間に語り掛けてくるのがメルヘンの世界。そこには「合理的な」理由はなにもなくて、人間と動物は会話できる、というのが世界観の根底にあったりします。今でいう「設定」ってやつ。
これは科学技術が登場する前、どの民族にも通じる現象で、実際のところは他民族を動物・怪物として捉えていたりする過去の伝統を引きずっているわけです。ある軸でメルヘンを見てやると、別に不合理でもなんでもなくなる。神様なんてモノだって右脳の非言語領域のコトだったって学説がありますからね(ウィキペディアで「二分心」を参照よろしく)。
これが科学が発展してきて、世界を捉えるのにひとつの視点しか許されなくなってくると、ググッと浮世が狭く感じられてくる。豊かさが消えていくような。見通し良く、明るくはなるけれど。
この世界の喪失感がファンタジーの原動力であって、どんどん明らかになっていく世界の秘密のベールの中で、合理的に、かつての「神」「不思議」を探し求めようとするわけです。つまらなくなった自分を、世界を、もう一度豊かにするために。
もうひとつ、世界が科学の発展で明らかになって行く上で、またそれ以外にも多くの発明で今まで交流しなかった文化圏が大量に接触・混合していく中で、過去の不合理なもの・理不尽な習慣・大勢からは許されない少数者の奇異な価値観…そんなものを描いていくのが原初の(19世紀前半のイギリスで誕生した)ミステリーであったり、ホラーであったりします。ホラーは基本的に科学的(公共的・一般的)な視点や評価軸があってはじめて成立する物語なので、ファンタジーのアプローチとは逆になるわけです。まあそこをどうアレンジするかがジャンル作家の力量なんですけど。

ここで『君の名は。』に戻ると。
映画の序盤の男女入れ替わりは明らかに根拠も理由もなく起こっている(ように観客へ見せている)ので、明らかにメルヘンの語法なんですね。まあそこまで言わなくてもプロダクション物の作品で機械的に消費されるようになった「設定」依存の世界観です。
これが中盤、瀧が動き出した段階で、やっとわけのわからないモノに触れていたと気付く「いや冷静に考えればおかしいよなコレ」という観方ができるようになり、この時点で援用されているのがクラッシック・ホラーの語法。幽霊や怪奇現象に取りつかれた一人と、彼を見守る常識人の二人(多くは男女で構成される)という組み合わせで展開し、この時点で観客は過去の能天気な「メルヘン気分」「アニメ気分」を捨てなきゃならなくなる。
伏線は十分に引かれているので、ご神体の元に行って酒を飲めば何かが動き出すのは、頭では理解できます。でもこのシーンでの瀧はそれを心の底からは信じてない。この「どうにもならないけどどうにかしたい」というやるせなさを、狂気として描き出す冷たさが、311と被らせることで効果倍増する、という。
そして、最後のギリギリの入れ替わりが起こった後は、世界の枠組みはすっかり明かされていて、瀧も三葉も怪異現象をちゃんと受け入れ消化して動き出し、堂々とファンタジーの世界へ入っていく。

いまや明かされた糸守は、周期的な破滅から逃れるために未来を見せたり、未来と過去を融合させる力があり、逆にそういう力がなければ生き残れないほどの災厄がある世界。全ての変化を黙って受け入れていく、女性的な田舎世界(すんげー古典的な女性観ですが、おそらく意図的)。
この日を生き残るために宮水家の存在があったというのに、身内を説得できないばかりに事態は動いてくれない…。
だから、ここでリフレインしますが、父と三葉が役場で会うシーンでは、彼女の表情に1200年の歴史の全部が、平安時代から女性の怨念が、あり得ないと思っているファンタジーへの入口が、土地神の力を借りて出てくるはずで、父親はおそらくそこに亡き妻の面影や、かつて理解できなかった部分の彼女についても啓示を読み取るのだ…と。物語上、そうでなければならないと思うわけです。
そうなんだよ。画竜点睛を欠いたんだよなあ…。
べつにその表情を描かなくたって、切り返して父の表情変化で表現するとか、いろいろやれたと思うんだよね。


さてタイムスリップ関連のSF面。彗星系の宇宙関係は外して。
新海誠がどこまで意識してやってるかが不明なんだけど、タイムパラドックスが発生した後の「忘れていく」という現象が実は、オイラ的にとっても素敵です。それはまた、作品全体の視点・人間観にも反映されてるように見えます。
素粒子を数式上で扱うのにファインマンの提唱した経路積分って方法がありまして、要は「素粒子が粒子として存在が特定できないんなら、逆にどこにでも存在しうると仮定して、場所ごとの存在確率を求めればいいじゃん」っていうやり方です。
これは確率的にめっちゃ低い事でも、「まかり間違えばそういう状態は成立しうる」というのを認めたうえで世界を構築するわけで、本作のような世界観とは相性がいい。
この世界観で、時間線が一本の世界でタイムスリップを起こしてみる(意識は粒子じゃないんで時間を超えられると仮定する)と、未来で起こった事を取り消すのに過去側で行動を起こした場合、未来はどんどん姿を変えて(粒子の確率分布が変化して)行くはずで。瀧が糸守の破滅を知って、過去を変えたとしたら、瀧が行動を起こす理由がなくなる。でもって行動を起こさないとしたらやっぱり惨劇は起こってしまうわけで…タイムパラドックスが発生します。
この経路積分的な世界観の下では、タイムパラドックスは瀧が行動する/しない/する/しない…と存在確率が振動を始めて落ち着きどころを探し始め、普通ならたぶん「瀧は過去を変えずに、謎のトラウマを抱えたまま生きていく」という世界線に落ち着くでしょう。
本作はそれをさせないために、ここでも《愛》を置いた。
タイムパラドックスの末に過去を変える。因果が逆転するので世界のあり方の存在確率は大幅にブレて振動し、実際に何があったのか、3年後の世界ではあいまいになってしまう。人々の《記憶》《意識》というのは、脳髄の中だけに存在しているんじゃなくて、そういう存在確率の上の雲のように捉えどころのなくなった粒子群の上にあって、全部の可能性を無意識的に見渡しているんだ…そんな、あいまいな世界で、絶対出会いたい人を探し求めるという行動だけが世界の姿を定める事ができる。
記憶があやふやになる、というのは新海誠らしい、かなり穏便な表現で、まあオイラだったら最後のふたりはありえない過去に振り回される、狂気の人になっちゃってるんだろうなあ…と思います。
ただ、タイムパラドックス認めてストーリーを進めた場合に、そういう世界観・人間観になって、そういう末路が訪れるというのを明示した作品はほとんど記憶にありません(グレゴリー・ベンフォードの『タイムスケープ』くらいか? 『バタフライ・エフェクト』がもっとベタに、安っぽくやってる)。監督は原作もやってるわけで、「過去を変える」コトについて、たぶん相当真剣に考察したんじゃないかと感じてます。特に組紐作りの意味のくだりで、その時空の捉え方の片鱗が伺えます。時空を俯瞰し、連続性・周期性そしてたまに分断する様を示唆するあたり。

んで、それを救うのが《愛》なんだ、と。
時間壊したって、矛盾引き起こしたって、そのために自分が壊れたっていいじゃないか。そこまでしてやらなきゃならない事があるんだ! …って、高らかに宣言した本作には、そこんとこ本当に脱帽しました。
新海作品では、世界より愛の方が重い。それに耐えられるくらい、強くなれる。だからこそ、このどうにもならない「今」を耐えて探し続けろ。
オイラ的にはもう『プライマー』を超える(以下略

追記:
スマホの日記が消えてくトコだけはダメね。デジタル機器ではそういう時空のブレは表現しずらいっすよ…あそこは手書きの日記を使うか、落として壊しちゃうとか、軽く逃げを打ってほしかったなあ…。


他の方々のレビューを一通り読んでみました。
新海誠は多大な欠点と、ごくわずかな絶対的長所を持ち合わせたクリエイターで、その長所ですら「表現力は短編向き」「構想は長編向き」とマッチしない部分があるヒト。しかも自分の世界観を表現するために、観客には丹念に《画》を読み解く事を要求するので、伝わらない部分が多くなってしまう残念な才能に恵まれてる。
長編作家としてこの欠点を埋めるために、今回は製作委員会方式にしたんだと思うし、それによって欠点の過半をカバーすることができたんじゃないかと思う。無視できない致命的な個所はいくつかあるけど、立派に骨(=観客を引っ張る燃料)を持った作品になった。

多くの人が問題視してるのは、この過程で過去作品からの大量の「借り物」が発生してしまったという点に見えました。
そこは鑑賞中に即座に気付いたし、気にしなかった。ストーリーの陰に配置された記号類がちゃんとしてたからね。ある意味、新海誠作品に慣れた人間の眼なら、借り物部分は軽くスルーできていた。
これが、ストーリーだけを追って観てる場合はちょっと辛くなるのは想像に難くないところ。
アニメの「時をかける少女」は猛烈に巧いカッティングで畳みかけるので、同じようなシーンでも『君の名は。』の方はまだるっこしく見えると思う。
オリジナルの『君の名は』は現実の戦争時代を舞台にしているので、公開当時、観客を引き込む力は圧倒的だったはずだ。
ただ、そういう過去の名作を援用して自分の欠点を補っていくのは、今後しばらくは彼の定番スタイルになるだろうし、それを上手にやれるようになるのは、長編を作る上では必須のプロセスだと思う(借り物魔王の宮崎駿を見よ)。すべてを自分の内側から生み出すのは無理なことで、無理にそれをやれば普通、強靭でないクリエイターは壊れてしまう。結局、過去作品の引用の仕方に才気があるかどうか、それで観客の好悪が分かれるようになりそうだ。
もちろんそれは創作現場の話であって、売れるかどうかは別の話。新海誠作品がドル箱になるのは今回証明されたので、同じスタイルを観客からも製作からも強要され続ける(スティーブン・キングがかつて「グリーン・ジャイアント」と例えた)状況になるはずだ。

だから、長編の合間には、実験的な短編アートアニメを作ってほしいと切に願っています。
密度の濃い短編作品の土俵でなら、長編製作での欠点をカバーできる。新海誠の才能の両輪は、違うスタイルの上で成り立っているものだと本気で思っていますから。
評価:9点
鑑賞環境:映画館(邦画)

シン・ゴジラ: 悪かったとこ、良かったとこ、刺さったとこ

相当なリサーチをしたと思われるシン・ゴジラ。
だが、専門知識を駆使しているがゆえにズッコケた個所がある。

「世界のスーパーコンピュータを並列につなげて」
ガタッ!(←テンションが50%下がった音)

「京」クラスのスパコンはもう全部カスタムなんだよ! 同一システムの中でも同期取るの大変なんだってば! センターを超えた距離でバスをつなげてスパコンの性能を維持するのは無理だって!
しかも計算理論のトレンドはもう10年前から Map/Reduce に移行してる。つまり、異なる性能・異なる通信速度のマシンを束ねて計算する(問題を分解する)のに軸足が移っている。ここはもう、間違いなく、各国のスパコンをあてにするんじゃなくて、クラウドコンピューティング(ここでのクラウドは雲の意味じゃなく群衆、インターネット上の有象無象のPCの処理能力をかき集める計算法)を駆使して世界のみんなでゴジラの謎を解こうぜっていう流れだと思うんですよ。
スパコンのハードウェアアーキテクチャ方面でも、GPUマシン(グラフィックCPUの超並列処理能力を計算に利用する奴・これがまた日本の得意分野)が台頭してきていて、立川移動後、PCの在庫をかき集めてこの方式で低価格スパコンをでっちあげる方法もあった。
《官》にだけリサーチかけた結果と思われる、ワキが甘くて惜しかった部分でした。

一緒に見に行った友人が言ってたんだけど「主人公が最初に、あの場で巨大生物を主張しちゃうのはどうなの」。
まあ、『治世の奸臣』って奴だよなあ…。


良かったとこ。
徹底した官僚目線から描いた点は、「本来ゴジラはそうじゃなきゃ」という想いを新たにした。眼帯かけた博士が自分の事情でドラマするようじゃダメなんさ。
一般人はおろか、現場の顔もほぼ見せない。その上で描かれる226、国家総動員、ポツダム却下、その他諸々の既視感あふれる政治状況…『日本の一番長い日』という評が多かったけど、本来そう描かなきゃならなかったのを今さらながらにやり直した遅すぎ感が出まくっている。これは84年版ゴジラが80年代にやるべき課題だったと思う。
ゴジラはたぶん、商業映画で日本政府が唯一本気の仮想敵にしても許される存在で、そういう架空戦記的な側面は今まであるにはあったけど、今回初めてクリアできた感じ。
そのテーマの良し悪しはまた別だけど、庵野独特の「虚構と現実」すらも上から見切っている目線が画面上に必ずあって、片方はビシッとエリを正してお行儀よく、もう片方は渾身の力を込めて吠え、神に抗っている。その様が、何とも泣ける。
最近観て、まだレビューしてない映画に『ノーカントリー』があるんだけど、あの映画を観る感覚に近いと思う。せんじ詰めれば、ミヒャエル・ハネケ風の画面づくり。そういう軸で斬ってみると、虚構とは映画自身の事であって、現実は観客自身なのかもしれない。

ゴジラが生物として放射性廃棄物と同居できてる仕組みは良かった。歴代ゴジラ映画で《SF》の看板をつけることができる、初めての設定じゃないかな。
んが、「完全生物」っていうコンセプトはなんかねえ…。
石原さとみが酷かったという評が多いけれど、あれは役者の問題じゃなくて、カヨコ・パタースンっていうキャラクター設定自体に無理があって、演じようがなかったんだろうと思う。明らかに米国も日本も持て余してるし、ああいう特別な個人が活躍できる枠組みの映画じゃない。たぶん、きっと、監督も持て余したんじゃないかと思う。
ここらへんの、初期コンセプトを引きずった部分の飛び方が、パタースンにしろ「完全生物」にしろ、現実からの乖離が激しくて、コンセプトの煮詰めはしっかりやったけど早撮り・剛腕で押し切ったな的な未消化感が残る。
あのゴジラは普通に考えて完全生物じゃない。生物から寿命のリミッターを外して、環境からの様々なフィードバックが、眠れる遺伝子にも影響するカオティックなサイクル(普通の生命ではこの部分を生殖が担っている)に再設計された、無限可能性生物(最近流行のエピゲノムってトコなんでしょう)。一言で言って生きるレゴのような奴だ。
ちなみに現実世界だと、もっとペースはゆっくりだけどグレートバリアリーフのサンゴ虫たちはそうやって死なずに進化してきた。個人的にはあの段階的進化はさほど空想的・ナンセンスじゃない。

全くもって小説的な、「何がどういう理由でこうなるんだ!」という説明に特化しまくったドラマは良かった。
本来ゴジラが属していたのは、(原作の一人である)小栗虫太郎の「秘境探検もの」ジャンルのSFだ。起源はコナン・ドイルの「失われた世界」。
このジャンルは、サファリスーツ一丁でチャレンジできるお手軽設定の代償として、送り手には膨大な知識量とその整理・提供を要求される。圧倒的な情報で読者を叩きのめす秘境描写を用いて、怪物たちが跋扈する様を現実であるかのように描き出すのが特徴。『キングコング』も、『黄金バット』も、この枠組みを使った。
今回のゴジラはこのスタイルへキチンと原点回帰した。原点回帰であるからして、チャレンジャー博士のような「観客に説明してくれる天才博士」が必要なんだけど、それをほぼ全員が全員のセリフでやる。「片桐はいり以外全員、一度は説明セリフを吐いたんじゃねーか?」ってぐらいの勢いだ。
そこまでの情報量でもって、やっとゴジラという生命の輪郭あたりが見えてきた感じ。もちろん、相対する日本政府の諸々の説明も必要なので、バランス的にはあれでやや限界感があり、もっと深堀りするのは難しそうだ(が、巨災対のメンバーが明らかにする内容だけでも十分SF的にエキサイティングなので、映画一本分の情報量としてはいいところか)。
ゴジラという無理やり感の強い存在は、巷にあふれるナゾ本が示す通り、長くて面倒くさい設定という呪文がなければ、本来画面上には呼び出せないはずなのだ。秘境もの・怪獣ものの原点たるべくこの儀式をキチンとやったのは、世界の映画史・SF史に1ページを刻む画期だったと思う次第です。


ささったとこ。
さて…ここからが長いんだよな…困ったな…。

実は84年版ゴジラを観た時に、あまりのガッカリで「いやあ、自分だったらこう撮るよなあ」とつらつら考え続けていた『自分ゴジラ』がありまして、今回の『シン・ゴジラ』はかなり近い…というか双子と言ってもいいくらい似てた。初見なのに全く感動がなく、冷静に分析しながら観れたのはそういう事情が大きかったです。
大きく違うのはねこ版では日本沈没的に国を切り売りしてしまおうとする政界上層部の動き(に対抗する巨災対みたいなゴジラ研究機関)と、シンゴジではチョイ役だったブンヤが第二の主人公になって博士探求の過程で被災者視点を担うとこ。
この2点の処理の違いが決定的になって、レビュー時、オイラの立場的には「『シン・ゴジラ』は評価するけどシンパにはならん。矢口蘭堂を非難する対抗馬は絶対必要だ。上映時間があと40分伸びそうだけど…」というスタンスに落ち着きました。

…続くか、次の記事に回します。
2016-08-13 10:24:32 | 実写作品 | コメント(0) | トラックバック(0)

ファースト・スクワッド(2009年【露・日・カナダ】)

いやはや、奇作すぎて言葉がないです。
美術面ではロシアの好む色使い(ユーリ・ノルシュテインみたいなやつ)に、ロシア・アバンギャルドとドイツ表現主義と描線のハッキリした日本の画造りが混ざり込んでて、その結果かつてない次元に位置する孤高のアニメ…になるかと思いきや、カット毎・パート毎にこの美術センスが切り替わってしまうので「融合」ではなく「衝突」になってしまう。志は高いんだけど、日本アニメの外注方式が裏目に出ましたな。こういうのは少数精鋭のスタジオで5年くらいかけて制作するタイプの企画でしょう。
でも、すごく色々と気づかされました。何より、この作品に限らず(つまり「話の話」なんかも含めて)ロシアでの金色というのは神の世界を表してるんだというのがハッキリ体感できました。
表現主義パートは正直ショボすぎるんだけど、まあいいや。

ソ連の敵がドイツというのは安直だったと思います。
中世の脅威を絡めるんなら、ロシア×モンゴルの方が彼の地的には納得されやすいはずで、そうすると時代を半世紀巻き戻して日露戦争かシベリア遠征中の日本を敵にして、もっと堂々とロシア・アバンギャルドを取り入れ、さらに東洋と西洋の生死観をがっぷり四つに…妄想が広がるなあ。
そういう、いろんな妄想を楽しませてくれた点で、2点上乗せします。
評価:7点
鑑賞環境:インターネット(字幕)

戦略大作戦(1970年【米】)

ガールズ&パンツァーのレビューを書き進めるために鑑賞したら、何ともマイフェイバリットな怪作だったという…ガルパンより点高くなっちゃったよ。

色んな方が色んな突込みを入れてらっしゃいますけど、まずアレでしょ。『戦略大作戦』という壮大すぎる題名。
コレって配給の宣伝部が「Dデイ以降の大陸戦でフランスの開放が遅々として進まなかったのに連合国が勝てたのには、こんな秘話があった!」的な惹句で広告戦略を考えたからじゃないですかね。ある意味、このタイトルでめっちゃ内容に合ってると思うし、見事なミス(?)リードぶりだと思います。
「戦略」と一口に言っても、現実の歴史が採った戦略はもっと残酷です。パリ解放を「戦略的」に遅らせようとして連合軍司令部が苦慮する(兵糧をパリ市民に配らなきゃなんなくなって補給線が維持できないからっていう…)事情をバックに描いたのが『パリは燃えているか?』ですよね。

んでまあ、次点で多かった「あの量の金塊をどうやってさばくんだ」的な突込みは製作者の期待するであろうところで、アメリカのホラ話にもよくある、広げた風呂敷をたたまないという突込み待ちエンディングじゃないかと。この、最後の最後で落語みたいな落とし方を持ってきたセンスがたまんなく好きです。
時期的にもアメリカン・ニューシネマの最中にあたる作品だし、一筋縄には行かないでしょう。いやこの映画がニューシネマの枠の中にあるっていうんじゃなくて、ニューシネマの場合は「俺たちゃやったことの制裁はキッチリ受け入れるぜ。だがてめえらに尻尾を振るのは断る」っていうドライさがあるわけですよ。この作品でやったら、ラストで黄金積んだまま地雷踏んでドッカーン…The END みたいな。そうはしないで、やりたい放題やり続けて日常へ戻るでもなく、どこかへ消えていってしまう。ニューシネマのアウトサイダーたちじゃなくて、もっと庶民的な、現場感ありまくりの観客と同レベルの目線の奴らが、走って走って、なんだかよく理解できない高みにまで駆け抜けていってしまう。その、ニューシネマたちとは真逆のアプローチが、ちゃんと昇華されたラスト10分がもう快感でした。

しかも、こんな「物欲」ベースのわかりやすい戦争映画なのに、作戦のもつれから来る増援・大部隊化や、損失の見切りの甘さから来る泥沼化や、部隊間の戦功争いや、そんなシリアスな戦争映画で扱われるようなエピソードがガンガン入り込んでくる。
非常にコンパクトにまとまった「戦争映画博物館」…というか、凝縮された作戦あるある光景、みたいな気もします。

ま、でも本命はやっぱオッドボール三等軍曹だよなあ。
彼が登場したとたんに世界のカラーが塗り替わるもんなあ。
あんな衝撃キャラだったとは思いませんでしたよ。
「橋は…あると思えばある」(戦争映画史に燦然と1ページを刻む大名言)
かませ犬サザーランド(親)の面目躍如作品だったようです。
評価:9点
鑑賞環境:インターネット(字幕)
2016-02-04 23:13:04 | 実写作品 | コメント(0) | トラックバック(0)