13.どこそこのディティールが「現実的にありえない」だの、
「突っ込みどころ」だのというのは
概してフィクションというものを理解出来ない者の常套句だが、
映画作家は「その不自然さを前提にしたところで、それとは別のところに
ドラマを作り出しているのだから、それを見なければ映画を見たことにならない」
(上野昴志「映画全文」)わけで、
Wikipediaあたりの拾い読み程度の薀蓄に頼った批判など、
物語に対しては有効でも、映画に対しては決して届かない。
少女を詰めた黒いビニール袋は、『トカレフ』でのそれのように、
あるいはペドロ・コスタの『骨』のように、
その生々しい物質感の露呈として映画内に要請されているのは云うまでもないだろう。
宮崎あおいは、その異質なビニール袋を目撃するや、とっさに走り出す。
無我夢中に。非現実的に。だからこそ映画的に。その走りと横移動のカメラワークがいい。
そして本来、映画の批評として肝要なのは上野氏が「非対称の視線―『トカレフ』論」ですでに書かれている、登場人物の視線の劇としてのあり方だろう。
建物の二階部から屋外を見下ろす主観構図の反復。その一方向的な視線の不穏な感覚。
江口洋介が、妻夫木聡が見詰める鏡。そこに反映する自身を見つめる眼差し。
クライマックスの取材現場での複雑な視線の交錯。そこに漲る形容不能な情感。
そうした視線によるドラマ作りを継承する本作は、劇中で幾度も主題を強調する。
具体の視線によって「見ること」を。