1.欧米では過去数十年に渡って幾度も映画化されている「透明人間」という題材。
その殆どが、SF作家のH・G・ウェルズ原作の映画化のようだが、日本でも「透明人間」という映画が存在していたとは知らなかった。
しかも1954年という公開年が益々興味深い。
1954年といえば何を置いても、「ゴジラ」第一作の公開年である。日本の特撮映画史におけるエポックメイキングと言える年に、特撮映画の一つとしてこの「透明人間」が製作されていたことは中々意義深いと思える。
第二次大戦中に秘密裏に存在していた透明人間部隊の生き残りの男を描いた悲哀は、時代的な背景も手伝って深いドラマ性を孕んでいる。
そして、その透明人間の主人公が、“ピエロ”の姿で“正体”を隠し、サンドウィッチマンとして生計を立てているという設定も、非常に映画的な情感に満ち溢れていたと思う。
(そのキャラクター的な特徴と立ち位置には、映画「JORKER ジョーカー」の逆説的な類似性も感じられ益々興味深い)
戦争における人間の功罪を、文字通り一身に背負う主人公の孤独と絶望は計り知れない。それでも彼が生き続け、守り続けた希望は、この時代にこの国で製作された映画だからこそ殊更に意義深いテーマだった。
“透明人間”という怪奇を映像的に表現した円谷英二による特撮も白眉だったと思う。
また、70年近く前の東京の風俗描写をつぶさに見られることも、時代を超えた映画的価値を高めていると言える。
この時代の特撮映画として不満はほぼない。
が、一つ不満があるとすれば、その後日本では「透明人間」という映画が殆ど存在しないことだ。
アメリカでは、1933年の「透明人間」以降、H・G・ウェルズの原作をベースにした作品だけでも4~5作品以上は繰り返し映画化が行われている。
それは、「透明人間」に関わらず、“ドラキュラ”や“フランケンシュタイン”しかり、古典的な怪奇映画の中では、時代を超えて普遍的かつ本質的な人間ドラマを見出せることを、映画産業としてよく理解しているからだと思う。
日本においても特撮映画隆盛期の1950年代から1960年代においては、今作以外にも、「ガス人間第一号」や「電送人間」「美女と液体人間」など、タイトルを聞くだけで印象的な数多くの怪奇SF映画が製作されている。
そういった往年の特撮映画を「古典」として、移り変わる時代の中で継承することができていないことが、この国の映画産業の弱体化の一因ではなかろうか。
今一度、今この時代の日本だからこそ描ける「透明人間」に挑んでもいいのではないかと強く思う。