1.主要記録媒体がフィルムからビデオに移ったことで、事件や事故が記録されやすくなったことに加え、プライベートな場が公に開かれ出した。フィルムも最初は金持ちのプライベートな場に入っていったが、手軽さがぜんぜん違う。本作はフィルムの作家では作られなかった。由美香さんの死の通報を受けてやってきた警察はビデオが回っていたことで疑ったが、それはそうだろう。前半の平野勝之監督の手法・というかいつもカメラを回している姿勢を知らなかったら、おかしいと思う。それが自然になるほど、ビデオカメラが日常的になりつつあったから、この記録は採れたのだ。かつて羽仁進は教室の自然な記録を採るために、子どもたちがカメラの存在に慣れるまで空回ししていた。いまビデオカメラがその状態になりつつある。個人的な場にカメラがあっても構えなくなった(平野さん太ったんじゃないですか、とエレベーターの中で挨拶するママ)。そしてプライベートな部屋に入っていく。恐ろしいほどの臨場感。腐臭が立ち込め、飢えたペット犬がはしゃぐ廊下、その奥の部屋の暗がり、かつてフィルムが秘境を収めたように、ビデオも現代の秘境を覗きかけるのだ。北海道への旅で、彼女が映した夕焼けと月の広々とした映像の対極のような、狭い暗がり。あの旅はあくまで平野の旅であって彼女はテントの中でも化粧をやめなかった。男女が相手に合わせようとすること、それでも合わないこと、それを無理に合わせようとすること。映像には現われなかったが、タケウマで日本一周をやっている人の危なっかしい歩みが想像の中に浮かんでくる。まったく人生とは、タケウマで日本を一周するようなものだ。彼女は人生の広さの中で脚をもつれさせ、数年後、狭い部屋に倒れ込んだのではないのか。