3.映し出されるアニメーションを食い入るように見つめながら、なぜ、涙が出るのかよく分からなかった。
ただ、その「理由」を認識するよりも前に僕は、奮えて、泣いていた。
この世界のすべての映画フリーク、そしてあの世界に憧れ、夢破れ、今なお“表現”することを秘め続けている人たちにとって、このアニメ映画は“唯一無二”になり得る。
映画館を出て、しばし呆然と立ち尽くす中で、かろうじてそういうことを思った。
原作漫画「映画大好きポンポさん」を読んだのは数年前になる。
僕の嗜好性をよく知っていて、誰も知らないようなマニアックな映画漫画(映画を題材にした漫画)をよく貸してくれる友人から、単行本を借りた。
他の映画紹介系漫画とは異なり、ハリウッド(作中では“ニャリウッド”)の映画製作現場を描いたアプローチが新鮮で、とても楽しく読んだ。
キャラクター造形のポップさと真逆を行くような、王道的な舞台裏モノのストーリーテリングが、驚くほどに芯を食っていて興味深かった。
面白い漫画ではあった。ただ、結果的に各漫画賞にも入賞しているとはいえ、元々は漫画投稿サイト「pixiv」に掲載され沸々とビュー数を伸ばした“マイナー漫画”である今作が、まさか“映画化”されるとは思っていなかった。
だから、映画館で大判のタペストリーを見つけて、今作の公開を知った時は、驚きつつも、「酔狂なことをするものだ」と、完全に舐めきっていた。
そんな“舐めきった”映画に完全ノックアウトされてしまうのだから、まったくもって「ざまぁない」。
コミックの1巻のストーリーをほぼ忠実に描いたストーリーテリングは、やはり王道的な内幕モノ+シンデレラストーリーであり、そこに特別な工夫や斬新さがあるわけではない。
ただそこには、主人公ジーンの偏執的なまでの「映画愛」と、彼がそこに至らざるを得なかった人生模様が、より強く、より深く刻み込まれていた。
なぜ僕たちは映画を観るのか、なぜ私たちは映画を作るのか。
その理由や経緯は、実際様々なのだろうけれど、少なからず僕たちは、スクリーンに映し出された“光”を通じて、自らの人生を「投影」している。
そのあまりに本質的な真理に辿り着いた主人公は、自らの存在のすべてを叩きつけ、削り込むように、“映像”を切り取り、そして“映画”として繋ぎ合わせる。
「ようこそ、夢と狂気の世界へ」
というポンポさんの台詞が、クライマックスの展開と共に、より深く突き刺さってくる。
そして同時に、僕にはそのイカれた世界に突き進む「覚悟」が無かったのだなと思い知った。
ちょうど一年くらい前から、趣味で動画作成をするようになった。
今の仕事とか、コロナ禍の生活とか、様々な状況が重なって始めた趣味だったけれど、やっぱり僕はこの“行為”が好きだったのだなと思い知った。
幸か不幸か、僕はこの作品の主人公のように、映画制作に命を懸けているわけではないけれど、それでも彼がPremiere Pro(編集ソフト)の画面を睨みながら、もはや半狂乱的に編集作業に臨む姿には共感を覚えた。
気の遠くなるような膨大な作業量を目の当たりにして、ゾッとすると同時に、さあどう仕上げてやろうかとほくそ笑む。
ヘタクソで冗長な撮影素材の中から、2秒前後のカットを選び取り、1フレームレベルで調整する。
その作業を延々と繰り返して、「作品」と呼ぶにはおこがましいたった数分間の映像を作り出す。
極めてマスターベーション的な行為ではあるけれど、かつての夢の残り香を追うように、僕は動画を作成している。
「才能」も、「覚悟」も無かった自分には、到底辿り着けなかった世界だったろうし、今現在の自分自身の人生に後悔があるわけではないけれど、漫画であれ、アニメであれ、その世界で「自分」を貫き通した人間の姿には、感動を越え、尊敬をせずにはいられない。
その主人公をはじめとする「映画製作」という狂気的な世界の中で生きる人間たちの様相に対して、僕は、色々な感情が渦巻き、高まり、奮えたのだと思う。
映画館から出た直後、すぐさまこの漫画を紹介してくれた友人にメッセージを送った。
「控えめに言って、傑作だった」と。