3.《ネタバレ》 レニーゼルヴィガーとユアンマクレガーが出ている「ミスポター」でのワンシーン。レニー扮するポターが、田園地帯を散策中、牛の世話をしていた農夫にたずねる。「この牛は、なんて言う名前なの?」それに対して彼は答える「家畜に名前はつけません。殺すときかわいそうになるのでね」・・・・・・つまり、これが「ブタのいた教室」が0点である理由の全てなのである。
この教師は、子供達にブタにPちゃんという名前をつけさせてしまった時点で
”生き物を食べるために育てる=家畜”
と
”生き物をかわいがるために育てる=ペット”
の違いが分かっていない愚かな教師だ。 育ててから子供達で食べるかどうか決めさせるのであるなら、スタート時点で名前をつけず、「家畜」「ペット」の境界をニュートラルにする必要がある。しかし、すでに名前をつけて「ペット」に分類させたブタを、最終的に食べるかどうか決めさせるなんていう行為は「育てたブタを食べるかどうか?」ではなく「かわいがったペットを食べるかどうか?」と子供たちに迫る愚行なのである。
いわば「戦地で食べモノがなくなったら、死にかけの戦友を食べるかどうか?」という議論をするようなものだ。われわれとて、ペットとして飼っていた動物は食べたくもないはず。
そんな意味不明で議論のテーマにもならないことを、おおまじめな顔で議論し、見当外れの意見がとびかう教室。空いた口がふさがらないのである。
食物連鎖のピラミッドは自然の摂理。それにしがたい、生きるために上の階層が下の階層の生物の命を奪うことには罪はない。
罪があるのは、生きるため以外、すなわち装飾のために毛皮とるために殺すとか、ハンティングのような娯楽のため殺すことだ。教師が教えるべきことは、そのことであって、「生きるために動物を殺すことはアリかナシか?」ではない。人間はほかの生き物と違い「感情論」を持つ生き物であるがゆえに、生き物を殺す葛藤が生まれる。でも大事なのは、食物連鎖という自然の摂理に従い下層の生き物の命をいただき、その食べ物に感謝すること、そして、食べモノを粗末にしないことであることを伝えることが教師の役目だ。
それを伝えたうえで、毛皮はぎの現場の映像資料を見せ、食物としてでなく装飾目的で動物達が糞尿と病気が蔓延する劣悪な環境で大量に育てられ生きたままこん棒で殴ったり感電して失神させられ生きたまま泣き声をあげようが容赦なく皮をはがされ、まだムシの息で生きたままの皮をはがれた動物達の山が食べられることなく積み上げられ廃棄されている場面をしっかりと目に焼きつかせることも教師の役目だ。
子供達の母親世代には、毛皮の現状も知らずダウンジャケットのフードのフチにリアルファーがくっついているのを何の意識もなく購入して「きれいでしょ」くらいの気持ちで着用している。そうした親が子供に毛皮の罪を教えることは期待できないのなら、学校で教えるしかないだろう。
名前をつけてペットとして飼育したブタを食べるかどうかなんていう意味のない議論をするより、学校のウサギ小屋にいるウサギを教室に運び込んで「みなさんの着ている上着を飾るために、このウサギを生きたまま殴って気絶させて皮をはいで、みんなの上着に縫い付けるかどうか議論しましょう」と、毛皮の真実を教えるほうがよっぽど、命の重みを学ばせることができたのではないか?
最後にひとつ。
ディズニーピクサーの「モンスターズインク」で、外来の汚染生物であり危険な存在と認識されている”人間”の女の子。マイクはその子をどうやってモンスターの世界から追い出すか、それまでの間彼女をどう隠すか、を必死で考えているのに、マイクの親友サリーはその子に<ブー>という名前を付けてしまう。それを知ったマイクは叫ぶ
「名前なんてつけたら、愛着わいちゃうでしょ!」
そう。だから私は言いたい。
「ブタにPちゃんなんて名前つけたら、愛着わいちゃうでしょ!」