1.最終盤、この映画は数十秒間の不思議な長回しを映し出す。
主人公が、悲しみとも喜びともつかない表情を浮かべ、それが微妙に変化する様を延々と映し続ける。
その表情が何を表していたのか、明確にはならない。
しかし、強烈に惹き付けられ、次第に彼と二人っきりで対峙しているような感覚さえ覚えた。
そのロングカットが表していたものは、徹底的なまでの「無力感」と、それと共にただひたすらに流れた「時間」そのものだったのではないかと思う。
結局、この映画の主人公は“何もできなかった”。
彼が生き延びることができ、元の人生に生還できたのは、ただ「運」が良かっただけだ。
度重なる私刑で息絶えていたかもしれない。
逃亡して奴隷ハンターに惨殺されていたかもしれない。
手紙は届かずまた裏切りにあったかもしれない。
そしてついに絶望し自ら命を絶ったかもしれない。
そう、彼以外の無数の奴隷たちのように。
たまたま運が良く生き延びた彼は、たまたま運が良く救いの手が差し伸べられた。
しかし、それは彼ただ一人に限った話であるという「現実」。
当然そこには生還したことに対してのカタルシスなど微塵も無かった。
農園主の偏愛により虐げられ続けた“パッツィー”が解放されることは無かっただろうし、子どもと引き離された母親は一生再会することはなかっただろう。
あまりにも愚かしい不条理に対しての徹底的な無力感。主人公が絶望の果てに感じ取ったものは、それ以外の何でもなかったのではないかと思える。
この映画は「奴隷制度」の非道さをただ描いているわけではない。
この映画が描き出したものは、「時代」に関わらず、「人間」の営み総てに通じる、愚かで悲しい「業」だったと思う。
虐げられる者と虐げる者、その両者の表情から滲み出ていた悲しさと愚かさは、対を成し、その根本は皮肉にも同じもののように思えた。
人間は、どこまでいっても自分を守ることしかできない。それはもうどうあがいても揺るぎようのない本質だろう。
誰しも、どの時代であっても、人間は己のその本質に対して、時に抗い、時に受け入れ、闘い続けるしか術を持たないのだと思う。
「奴隷制度」は決して過去のものなんかではない。
そして、それの廃絶は人間にとって決して安易なことではないだろう。
この映画は、世界中の人々が自分自身のこととして痛み入るべき作品だと思う。