1.ホラー作品に於ける様々な怪現象や超常現象には説明がつかない或いは理由の解らないからこそ、人々はそこに底知れぬ恐怖を感じとるのである。過去にこう言った点を独自の視点でクリアしていった傑作ホラーと呼ばれる作品群がある一方で、物語が進行するにつれそれらの大半が、所謂「怨念話」によるものだと解明された途端に、興醒めしてしまうといった作品が多いのも事実である。それは状況においての辻褄合わせの為の説明過多、つまりは余りにも理屈で語ろうとし過ぎるからに他ならない。見えない、そして説明がつかない「何か」が纏わりついてくるような恐怖。その「何か」の後を追うような視線と、やがてくる覗き見という「禁断の世界」への好奇の眼。黒沢清はD・リンチを意識しているのではないかと、私などは常々感じていて、無理矢理共通項を模索すると前述のようになるが、映画が進むにつれ、リンチ作品は物語性が後退し、迷宮の世界へと入り込み、常識としての話の筋そのものが殆ど意味を持たなくなる。 それに対し黒沢の新作は、「現実」と「非現実」の描写が混沌もしくは逆転し、「曖昧な現実」と「具体的な非現実」として、極めて通俗的に物語れていく。ひたすら意味の解らない独自の世界を映像で語り続け、意味の解らないからこその面白さを探求しているリンチに対し、本作の後半から終盤にかけての説明過多とも思われる回想シーン(主人公たちの悪夢ともとれるが・・・)が具体的に過ぎる反面、未消化に終わっている為、大部分の不可解な謎との均衡を阻んでしまっている。そこにはリンチのような、意味の解らないなりに魅惑的な面白さなど存在する筈もなく、かと言って多くの謎(矛盾と言ってもいい)が解明されるカタルシスも生じない。まるで散りばめられたパズルがいつまでたっても組み合わされないもどかしさを覚えるばかりだ。それを良しとする向きもあるようだが、一般の観客はやはり納得するまい。それでいいのか。