4.《ネタバレ》 原作は若い頃に読みました。当時は直子に完全移入で滂沱の涙を流したものですが、流石におばちゃんとなった今は誰にも共感出来まへん(苦笑)。ただ、「そーだよな、だからハルキ・ムラカミは世界で読まれるんだよな」と改めて確信したのですね。登場人物に感情移入はしないけど、この人が描こうとしているコトには揺さぶられる。恋愛をこういう風に描く作家って日本にはいない気がするのですね。なんとなくヨーロッパ的な感じがする。
なにしろ生々しい性愛が描かれている作品なんですけど、自分が生きている世界に対して漠とした不安や不確かさを抱いてる、若い時って誰でもそんな時期があると思うけど、ここに出てくる人たちは皆そういう不安定さの中でもがいてる感じ。まぁ悩み方はそれぞれで、それに対する対処(ふるまい)の仕方もそれぞれなんだけど、1番ストレートに悩み苦しんでるのが直子。彼女の苦悩って別に「不感症」がどーのって話じゃなくて、「濡れる」か「濡れない」か、その行為(現象)一つひとつに「意味」を求めてしまう、そういう「生き方」の問題だと思うのです。
世の中っていうのは「記号」の連なりとも言える訳で、この世に存在するものは全て、人もモノも自然もみんな世界に立ち現われている姿は境界の曖昧な「なにものか」でしかないけれど(表象というものですかね)、人間は言葉を持っているがゆえに全てを概念化できるし、またそうしなければ(たぶん)生きていけないと思う。言語化して意味を付与することで安心できる。普通の人は、そうやって言葉を獲得してモノゴコロついた時から、ごく“自然に”世界を言語化し抽象化して捉えていると思うのだけど、それって「記号」を「記号」のまま理解して納得して了解しているってことなのかなと。「好き」も「セックスする」も記号として普通に意味が想起される行為だから、普通の人は何もひっかからないで、所謂「恋愛」の手続きとか流れとして捉える訳だけど、村上春樹においてはこういう「記号」をいちいち解体しちゃうというか、記号からありきたりの意味を引き剥がしてみせるというか、本当の世界はこんな白々しく空疎な記号の連なりなんかじゃなくて、もっと生々しく確かな手触りがあるものなんじゃないかって、そういう手応えを求めているように思えて仕方ないのですね。だから物語としては、表面的に展開している「出来事」と、それが「意味すること」との間にすごく距離を感じさせる。当然、登場人物たちの感情や言動も、目に見えてるオハナシから想起され得るものとは違う。“愛”というものが確かな実感のあるものでありながら、その実体はどこまでも不鮮明かつ不確かなものであって、こんなに「記号」として便利なものはないし、「記号」として役立たずなものも無い。世界を問い直す作業において、この“愛”ってものはかなり優れたテーマなんじゃないかなぁと思えるのです。
さきほど、直子の苦悩は「生き方」にあると書きましたが、彼女は世界に対してそうやっていちいち「意味」を問いただし、自分の肉体や生理現象にすら「答え」を求めてしまうものだから、とても身が持たないのですね。映画館で観た後、私は手帳にこんな走り書きをしました。
「“問い”は世界への呼びかけ。挑戦。ノック。ノックし続けると世界はひび割れ崩れ落ちる。直子はそうやって世界を壊し自身を壊したのだ」
対する緑ちゃんは「意味」を否定する存在というか、直子のような強迫的な「意味づけ」を「無意味化」してしまう女の子。直子がタナトス(=死)志向の女性で、緑はエロス(=生)を象徴する女性。ワタナベは直子に身を絡めとられつつも、緑の存在があったればこそ、「世界」をそのままに引き受ける力を得たんじゃないか。戦うのではなく、しなやかに受け止める。生と死の「あわい」に生きる男のオハナシ。松ケンは良かったね。