9.《ネタバレ》 84日の不漁の後、漁に出た老人が数日間かけて獲得した大魚と、それを喪失する顛末を描いて、生きるとは何かを問いかける。戦争を描いた文豪らしい骨太な主題だ。
老人にとって巨大マカジキはどういう存在だろうか。魚を獲ることは、自分を生かすことだが、同時に自分をすり減らすことでもある。魚との戦いには勝たなければいけないが、魚が憎くてそうしているのではない。魚には深い同情を示す。だから巨大マカジキを義兄弟と呼んだ。老人と魚とで一種の共依存関係が成立しており、勝利のあとに得られるのは幸福感と虚無感だろう。人間は他の生物の命を奪い、自分を削って生きてゆくしかないという自然の摂理。それを受け入れるしかないのだ。獲物が鮫に食われた時、老人は我が身が食われたような苦痛を味わったに違いない。満身創痍の死闘の果てに得た獲物が、必死の抵抗にも関わらず、あらかた鮫に食われてしまう。敗北だろうか、ただ運が悪かったで済むことか。そうではないだろう。老人は魚との格闘の中で、生きる悦びの神秘的な迸りを体験した。神の恩寵、祝福ともいうべきものだ。自分の中に眠っていた若さを数刻ながらも取り戻したのだ。老人の勝利といってもよい。老人が時折夢に見るライオンは自身の若さの象徴だ。家に戻って見た夢のライオンはさぞ光り輝いていたに違いない。
旅行者は皮肉にもマカジキの骨をサメの骨と勘違いする。自然と対峙せずに生活する文明社会の人間にとってマカジキとサメの違いはない。だが文明生活からは、真の生きる悦びは得ることはできない。
もう一つの題目は老人と少年の深い絆。老人はマカジキとの死闘の最中、あまりの疲労に思う、あの子がいてくれれば。少年は老人の痛んだ手を見て涙した。コーヒーを取りに戻るときも泣き続けた。それほど二人は一心同体だった。少年にとって老人はあこがれ、尊敬の対象であり、老人にとって少年は救い、慰みそのものだ。老人はかつて少年だったし、少年はいつか老人になる。両者は裏表の関係だ。共に貧しく、命がけで漁に出る海の男だからこそ、世代を越えた絆で結ばれるのだ。二人は貧しいが、決して不幸ではない。相手を思いやる、豊かで暖かな心に包まれているのだから。少年は言う、「今度は連れてって」。希望と未来がそこにある。海はいつでも新しい。少年にとっても、老人にとっても。