1.何だか見終わって、いや、見ている間じゅうも、まるで“夢”のような感触を与える映画なのだった。そして夢が、常に“自分が知っている(経験した)こと”の反映であるのなら、この映画のなかで描かれているひとつひとつが、どこか既知(デジャ・ヴ)めいた、なつかしい、甘やかな感傷に浸らせてくれるものとして、ある。それは、この映画を見てずいぶんと時間が経った今もなお、小さな余韻を残し続けているのだ。
上流階級に育った10代の英国娘が、旅先で出会ったフランス人労働者の青年にひかれ、彼が暮らす田舎町で一緒に住むことになる。けれど、国も、生活も、まるで違うふたりは、愛し合いながらも心がすれ違いはじめていく。
・・・それだけを聞くなら、何て陳腐! と思われるかもしれない。実際この映画に、何ひとつ「目新しいもの」はないだろう。しかし、異国の小さな町で暮らす主人公の少女の、日々の生活のなかで感じるささやかな喜びや幸福感、とまどい、悲しみといった感情のひとつひとつに、見るぼくたちはきっと誰もが心を動かされ、前述の通り“不思議ななつかしさ”を覚えてしまうのだ。
たぶんそれは、この映画の描こうとしているのが、人生のある一時期だけにゆるされた“恋”であるからではないか。子供の無分別とも、大人の打算とも違う、純粋ゆえに不器用で、優しいくせに傷つけてしまう、けれど真っ直ぐに相手と自分を見つめようとする“恋”。
なるほど、いわゆる「青春」の恋を描いたものなど、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を筆頭に古今東西数えきれない。が、この映画が本当に描こうとしたのは、“恋”そのものではなく、それが「ある一時期だけのもの」であるという“かけがえのなさ”ではないか。だからこそ、遠い極東の島国で、30歳(だったんです、見た時は・・・)の男にもそれは受け止めることができた。何故なら、どんなカタチではあれ、きっと誰もが人生の「ある一時期」を経てきているのだから。
その意味で、これはむしろ「大人たち」こそが見るべき映画かもしれない。そして、今では忘れた(あるいは、忘れたふりをした)あの頃の“自分たち”を見出してほしい。その時、この何の変哲もない「青春映画」は、あなたにとっても“夢の1本”になってくれるはずだから。