ゲド戦記のシネマレビュー、評価、クチコミ、感想です。

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ゲド戦記

[ゲドセンキ]
Tales from Earthsea
2006年上映時間:115分
平均点:3.69 / 10(Review 191人) (点数分布表示)
公開開始日(2006-07-29)
ドラマアドベンチャーファンタジーアニメ小説の映画化
新規登録(2006-05-07)【マーク・ハント】さん
タイトル情報更新(2023-05-24)【イニシャルK】さん
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監督宮崎吾朗
岡田准一アレン
手嶌葵テルー
菅原文太ハイタカ(ゲド)
風吹ジュンテナー
田中裕子クモ
香川照之ウサギ
小林薫国王
夏川結衣王妃
倍賞美津子女主人
内藤剛志ハジア売り
飯沼慧ルート
梅沢昌代2人組のオバさん
神野三鈴2人組のオバさん
加瀬康之船に乗っていた風の司
阪脩国王家臣
西凜太朗ウサギの部下
宝亀克寿船員
白鳥哲船員
池田勝
木川絵理子
加藤英美里
斎藤志郎
ウィレム・デフォークモ(英語吹替版)
ティモシー・ダルトンハイタカ(ゲド)(英語吹替版)
チーチ・マリンウサギ(英語吹替版)
原作アーシュラ・K・ル=グウィン「ゲド戦記」(岩波書店刊)
宮崎駿(原案)「シュナの旅」(徳間書店刊)
脚本宮崎吾朗
丹羽圭子
音楽寺嶋民哉
作詞宮崎吾朗「時の歌」/「テルーの唄」
新居昭乃「時の歌」
作曲新居昭乃「時の歌」
谷山浩子「テルーの唄」
編曲寺嶋民哉「テルーの唄」
主題歌手嶌葵「時の歌」
挿入曲手嶌葵「テルーの唄」
撮影奥井敦(映像演出)
製作東宝(「ゲド戦記」製作委員会)
高井英幸(「ゲド戦記」製作委員会)
島谷能成(「ゲド戦記」製作委員会)
ウォルト・ディズニー・ジャパン(「ゲド戦記」製作委員会)
日本テレビ(「ゲド戦記」製作委員会)
奥田誠治(製作担当)
電通(「ゲド戦記」製作委員会)
博報堂DYメディアパートナーズ(「ゲド戦記」製作委員会)
市川南〔製作〕(「ゲド戦記」製作委員会)
星野康二(「ゲド戦記」製作委員会)
製作総指揮ジョン・ラセター(英語吹替版)
プロデューサー鈴木敏夫
制作スタジオジブリ
配給東宝
作画Production I.G(作画協力)
GONZO(作画協力)
GAINAX(作画協力)
マッドハウス(作画協力)
タツノコプロ(作画協力)
米林宏昌(作画監督補)
田中敦子〔作画〕(原画)
小西賢一(原画)
大杉宜弘(原画)
黄瀬和哉(原画)
本田雄(原画)
森田宏幸(原画)
山下明彦(作画演出)
古屋勝悟(原画)
百瀬義行(原画)
橋本敬史(原画)
美術武重洋二
真野薫(タイトル)
小倉宏昌(背景)
男鹿和雄(背景)
保田道世(色彩設計)
編集瀬山武司
録音若林和弘(録音演出)
井上秀司(整音監修)
東京テレビセンター(録音スタジオ)
西尾昇(デジタル光学録音)(デジタル光学録音)
上田太士(光学録音)
その他スタジオジブリ(提携)
日本テレビ(提携)
ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ(提携)
三菱商事(提携)
東宝(提携)
電通(提携)
IMAGICA(現像)
博報堂DYメディアパートナーズ(提携)
糸井重里(キャッチコピー【ノンクレジット】)
読売新聞社(特別協力)
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4.驚いた!ある意味最高に面白かった。監督は父、駿氏の影を追うことで手一杯で、それすらもことごとく要所をはずしている。原作を未読なので絵のことしか語れないが、デッサンが怪しい、色がきたない、構図が悪い、カメラワークに冴えがない、等々が親父の作品との違いじゃぁほとんど素人まるだしじゃないですか。アニメというメディアはトップに才能がないといくら優秀なスタッフを集めても全く力が出せないということが良く分かった。やる気にならなかったんでしょ、背景さんも色彩さんも。製作現場の雰囲気はまともなものだったのだろうか。その様子が見られる特別版のセルDVDが欲しくなったのは初めてだ。100円くらいだったら買ってしまいそうだ。本作を観て父、駿氏は大変な才能の持ち主なのだということも思い知った。こんなみっともないドジを踏むジブリというスタジオがハリウッド式量産体制とは全く無縁の“真の芸術希求の場”だということも理解できた。なにより駿氏が息子の仕事と割り切って手助けを一切していないことが画面からひしひしと伝わってきて清々しささえ感じた。いやはや凄い親父もいたものだと思う。いくらなんでもこれはまずいと思わなかったのだろうか。息子のやっていることが破滅的行為だということは彼が一番感じたはずなのに。彼が“人間らしい心”をもってちょこっとアドバイスしてあげればここまで素人くさい作品にはならなかったはずなのに。ケンカしていたそうだがこの出来を見ると本当にまったく口出ししなかったようだ。原作者との因縁を知ると完全無視できるような状況じゃなかったと思うのだが。二人とも大人げないことこのうえなしだ。この作品をめぐる様々な状況も含めて実にエキサイティングな、そして眼からウロコが落ちまくりの素晴らしいイベントだった。吾朗氏はくじけずにこの結果を一切糧としないでヤケクソになって狂った作品をどんどん作って欲しい。その中からきっと彼独自の世界観が立ち上がってくるはずだ。次作が本当に楽しみだ。………(追記:後にこの期待は裏切られた)
皮マンさん [DVD(邦画)] 10点(2007-08-04 20:35:26)(良:3票)(笑:6票)
3.この映画、見終わった時うれしくて涙がぼろぼろと止まりませんでした。この映画を評価する理由を二つ書きます。まず第一に宮崎吾郎さんが、自分の語りたいストーリーを原作の世界観の中に見出し、それを語ることに成功していることです。ふつう小説を映画化するときには、あらすじを追ってそれを映像化さえすればよいと考えがちですが、彼は全く違ったアプローチでこの原作と取り組んでいます。この映画に僕が感じた、原作とも共通するテーマを一言で言えば「自分と向き合うこと」です。吾郎さんの場合それは「宮崎駿の息子としての自分と向き合うこと」だったのでしょう。でもそのテーマは僕ら一人一人だってそれぞれに引き受けなければいけない普遍的なテーマでもあります。僕らはこの映画のストーリーとともに、あるいはそれ以上に、映画の描き方の中のほうにもその「自分と向き合う」というテーマを感じ取ることができます。吾郎さんがどのように自分のアイデンティティを見つけていったか、それをキャラクターの設定、動かし方、背景、声優さんの演技などなどに見てとることができます。そしてそのテーマは、原作のゲド戦記のストーリーと共鳴して響いてくるのです。映画のストーリー自体はむしろ観客のカタルシスを優先し、自分の中の暗い負の部分と直接向き合わずに済むように、それを敵役に一方的に背負わせてしまっているきらいもあります。でもそうした表面的なストーリーよりも、宮崎駿ファンならジブリの作品史という文脈の中でこの作品も見るだろうし、それなら捉え方も全く変わってくるはずです。それ以外の良い点もみなこの点に関わってきますが、もう一つだけ挙げるとすれば、それは表現にめりはりが効いていることです。もののけ姫、千と千尋、ハウルというように進化してきた宮崎アニメの映像に比べると、絵の描きこみは相当に単純化され、省力化される一方で、ラストの一連の重要なシーンや特殊効果的な映像、そして音響効果にはしっかり手間がかけられています。吾郎さんが自由に作品を作り上げるために、お金をかけすぎないということは絶対条件だったはずです。お金をかければかけるほど、営業的に自由度が少なくなっていきます。この映画はそういう意味で、やりたいことを追求するために、比較的どうでもいいことをあきらめることで成り立っています。その取捨選択のバランスの良さを僕は高く評価したいと思います。
小原一馬さん [映画館(字幕)] 10点(2006-08-13 02:46:37)(良:1票)
2.元々70年代に三部作として一旦完結した「ゲド戦記」の第四部「帰還」が91年に、更にその続編「アースシーの嵐」が01年に出版された。原作者ル=グウィンはそこで、元の三部作で構築した価値観を相対化・解体し、新たにジェンダーの問題や男性原理としての知の体系に対する疑問を提示した。言い換えれば、従来完結していた「ゲド戦記」の世界観をあえて揺さぶり破綻させた(そのため多くのファンを驚かせ、戸惑わせた)。ル=グウィンはなぜそのような、自らの実績を破壊しかねない無謀な試みをしたのか?一言で言えば、彼女が「ゲド戦記」を単なる現実逃避としてのファンタジーではなく、常に移ろう「現在」を映し出す鏡と捉えていたからだと思う。■さて、その映画化作品である本作は第三部「さいはての島へ」をベースにしつつも、単に筋を忠実になぞるのではなく、一度原作(第一部~五部と「外伝」)を解体した上で再構築している。第一部「影との戦い」で本来少年時代のゲドが演じた「自らの心の闇と格闘し、やがてそれを受け入れる」という役割をアレンに託し、更に彼に「父を殺め、死に怯えるあまり生を実感できずにいる」という設定を加える事で、本作をより現代的に発展させた(付け加えるなら、ゲドの仇敵クモは「成熟できずに肥大化した自我」という、これも現代的な問題の象徴かもしれない)。■つまり何が言いたいのかというと、この作品が「原作には忠実ではないが、原作者の真意には極めて忠実な映画」だということ。■更に本作をアニメ作品として捉えた時、そこには父・宮崎駿の存在がハッキリと見て取れる。テルーの演じた「健気で勇敢なヒロイン」という役割はかつての宮崎アニメには不可欠だったし、アレンとテルーが手を取り合って敵に立ち向かう姿は「ラピュタ」を想起させる。更に「生きることの意味」への問いかけ、という文脈で見るならば「もののけ姫」のテーマを継承しているとも言えるだろう(もちろん「エヴァンゲリオン」の影響も見逃せないが)。■嘲笑されることを承知であえて端的に言うならば「宮崎吾朗は宮崎駿ではなく、しかし宮崎駿の息子である」ということなのだと思う。■決して「傑作中の傑作」であるとは言えない。世界観の広がりのなさなど、欠点も指摘できる。しかしながら「偉大な監督の息子である」というプレッシャーがありながら監督を引き受け、作品を完成させたその勇気と決断に敬意を表したい。
ぐるぐるさん [映画館(邦画)] 10点(2006-08-02 15:13:11)(良:8票)
1.《ネタバレ》 映画がはじまってまもなく、信望厚い「偉大な王」が、息子である王子に刺される。王子は魔法で鍛えられたという剣を奪い、そのまま逃走してしまう。その後、王が死んだのかどうかは分からない。けれど、父王を刺した王子の年齢が、「17歳」であることを観客は知らされる・・・。

この、「父親殺し」と「17歳」という設定にこそ、監督・脚本の宮崎吾朗はおのれの“すべて”を賭けたのだな、と思う。誰からも尊敬される父親を持つ17歳の少年が、その父親を殺す。そして彼は、彼自身の心の闇から現れる「もうひとりの自分」の“影”におびえ、逃げ続けるという展開がたとえ原作にあったとしても(ちなみに、ぼくは未読です)、それは、この映画の作り手にとってはるかに切実な意味を持っているに違いない。もちろんそこに、宮崎駿という「偉大な父」を、その息子である吾朗監督が「殺す」というエディプス的な〈家族の物語〉を見出すことは簡単だろう。彼ら父子がいったいどういう「関係」だの「葛藤」を抱えてきたのか、それがこの作品にどういう“影”を落としているのかを推察するのも、興味深いのかもしれない。

が、この映画が本当にめざそうとしたのは、なぜ「17歳」の少年が「父親」を殺したか、なぜ「17歳」の少年は自分の“影”におびえ逃げ続けるのか、なぜ「17歳」の少年は命の価値を省みないのか・・・を、自らに問い、懸命に答えようとすることだったんじゃないだろうか。少なくとも吾朗監督は、その“自問自答”を、それだけをただ繰り返す。物語よりも、展開の妙よりも、「面白さ」よりも、その問いかけこそがこの映画の「すべて」なのだ、と言わんばかりに。

そこに、とりあえずの「答え」は可能でも、本質的な「答え」は不可能だろう。それは作り手たちにも自覚されていたはずだ。だから、“とりあえず”のかたちでしか終わり得なかった本作は、明らかに破綻しているし、「失敗」している。しかし、その“問い”の真摯さは、間違いなく本作の主人公の、そしてたぶん「宮崎吾朗」という作り手の抱える“心の闇”を共有する「17歳」たち(もちろんそれは、実際に17歳であるかどうかということでなく)の、心の最も深い場所に届くものだ・・・とぼくは信じる。その意味でこそ、ぼくはこの映画を断固支持したく思うのだ。

・・・そう、「面白い」以上に大事なことが、映画にも、人生にも、きっとある。
やましんの巻さん [試写会(邦画)] 10点(2006-07-20 14:28:37)(良:13票)
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【点数情報】

Review人数 191人
平均点数 3.69点
094.71%
12714.14%
22412.57%
33618.85%
42513.09%
53518.32%
6189.42%
773.66%
842.09%
921.05%
1042.09%

【その他点数情報】

No名前平均Review数
1 邦題マッチング評価 1.61点 Review26人
2 ストーリー評価 2.16点 Review37人
3 鑑賞後の後味 2.28点 Review35人
4 音楽評価 5.00点 Review37人
5 感泣評価 1.70点 Review34人
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