1.後の『残菊物語』(39)と比べるとカットはやや多めですが、ワンショットはかなり長く、平均的なものと比べれば非常に極端なロングテイクを多用しています。クローズアップもほとんど無く、引きの画が全編を支配していて、いわゆる「引きの長回し」という、溝口のスタイルがはっきりと確認できます。殺伐とした客観的な引きのショット、そして芝居に合わせておもむろに横移動し出す美しいキャメラワーク。これらはクローズアップを多用したTVドラマなどに慣れてしまった時代から見れば、極めて奇妙に映るかもしれませんが、一度はまってしまえば止められません。「同一空間は同一構図の中で」↓(失礼します)という、評が気になって『祇園の姉妹』(36)なども観直してみましたが、なるほど、キャメラが数カットを挟んでもう一度同じポジションに戻ってくる箇所がいくつかみられました。これはむしろ小津作品で顕著にみられるキャメラワークだと思いますが、小津はまず構図ありきで、構図にお芝居を当てはめる取り方。対して溝口は芝居に合わせてキャメラを動かす監督。にもかかわらず、小津同様にこれを達成できたのは、構図に先に決めようが、お芝居を追っていこうが、劇映画におけるもっとも的確なキャメラポジション、ベストな構図はやはりひとつしかないということの証拠ではないでしょうか。そう考えれば、技巧的にみえる溝口のキャメラワークも実にシンプルかつ明瞭なもの。キャメラをパン、移動させながらこの一つしかないポジションをなぞっていくという単純な作業に終止したということでしょう。もちろん、これを長回しで達成するとなると相当難しいのでしょうが。。。ラストシーケンスは『祇園の姉妹』のラストへと継承される「女の強さ」。この激しさはまさに映画でなくては表現しえない堂々たるもの。自分を犠牲にしながらも男に尽くす女性。これが溝口が終生描いたテーマですが、この本質が恋だの愛だのと言った男女の恋愛関係にあるわけでないことは第一映画時代に作られた本作と『祇園の姉妹』(36)を見れば明らかでしょう。表向きは女の悲劇であっても、さにあらず。これは女の強さと活力を高らかに謳い上げた演説映画の金字塔。男の存在はどこまでも情けなく、あくまでも飾りにすぎない。優しい二枚目が登場する新派劇を一蹴した溝口のリアリズム。その前衛性がものの見事に現れた傑作です。