1.淀長さんもいう、、、「女を描いたら天才ですよ、溝口は」、、、多くの人たちも言う、「溝口の女の描き方は比類のないものだ、、、」、、、でも思うのだが、女のさがみたいなものは、ずっとずっと変わらないものなのだろうか。生物学的に女であると、感情も立ち居振る舞いも、必ずある姿をまとうようになるのだろうか。、、、僕はそんなことはないと思う。母性本能みたいなものが神話であるように、女がどのような感情を抱き、どのように振る舞うかということも、時代とともに変化すると僕は思うのだ。、、、、だから、淀長さんが想定しているのは大正、昭和の女ではないだろうか。、、、、だから、平成の女を引照基準にして見ると、溝口の映画は、女の世界が主題になっているようには見えない。、、、、この映画でも、木暮も若尾も、仕事を持つ女で、映画のテーマも、仕事と自分の個人的な感情の間での悩みであり、今の時代なら、この二人は男という設定の仕方にしても決して成り立たないわけではない。そして、木暮の親兄弟もいないという寂しさ、若尾にむける愛情は、木暮が女だから抱く感情だとは、今の時代なら、思えない。、、、、、、それにしても、木暮の住まいの玄関から右に出た長屋の通路の風情の美しいこと。その先の道路を歩く通行人、路上で花火をする子どもたち、僕たちの多くが見失ってしまった、かつての日本文化のたおやかなたたずまいが、ここになはしっかりと記録されている。