5.この映画の白眉は、一人の白人兵士についての態度を決めるスー族の意志決定過程において、「十頭の熊」(長老)が、意見が鋭く対立した最初の寄り合いで、意思決定を次の寄合いまで先送りするシーン。欧米の映画で、問題の先送りという手法を肯定的に描いたものは少ないのではないだろうか。次の寄合いでは、その兵士のいる所まで使者を送って会ってみよう、ということになり白人兵士が何者であるのかについて性急な結論を出さずにゆっくりと判断をしていく。国連の安保村にもこのような長老が昨年いて欲しかった、という後出しジャンケン的なコメントはさておくとして、この映画の上映時間を「長い」と感じること自体、自分が普段いかに白人的な時間観念の中に取り込まれて生きているかの証左ではないかと思う。この映画がネイティブ・アメリカンをどこまでフェアに取り上げているのかは知らない。ただ、彼らの時間観念を表現するにはどうしてもこれだけの上映時間が必要だったのではないだろうか。これを2時間程度に短くするのは不可能だと私は思う。 【南浦和で笑う三波】さん 7点(2004-09-29 22:00:46) (良:1票) |
4.アメリカ開拓時代の北米インディオとアングロサクソンの交流を舞台とした作品。 アメリカ人から歴史的に描かれたインディオ(インディアン)像は二通りあるのだと思う。「野蛮」、「残忍」、「無知」なインディオと「誇り高き」、「心優しき」、「自然と共生する」といったインディオと。 前者は作品中ポーニーと重ねられ、後者はダコタ(スー)と重ねられている。この作品の主題は後者の像を描くことである。前者の像を持っていたアングロサクソンの主人公が実際に彼らの生活、思考への接触を重ねるごとに後者の像を獲得するに至り、最終的にはそれを自分に内在化し、新たな生き方を発見する。また、同様に結果的にアメリカを支配するに至ったアングロサクソンにもその二面性があることも当然のように描かれている。 こういった「異文化」の接触と理解といったテーマは個人的に好きなのだが、同時に描き方の難しさも伴っていると思った。とにかく前述した二面性を強調するために、極端な描き方になっている。実際にはひとつの集団内で二面性があるはずなのに、アングロサクソンの二面性に触れても、インディオの二面性は集団に還元されてしまっている。現在もアメリカに住むポーニーの人びとはどう思うのだろう。むしろ彼らはインディオとアングロサクソンとの橋渡しを行った人びとだという。一方ではダコタ(スー)は最後まで積極的に抵抗した人びとだ。このような事実がありながら、なぜこの映画ではこういった描き方になるのか?その理由は?映画の世界を現実に戻して考えると不思議は多い。この映画の製作者が先住民問題を考えるべくこの映画を作ったならばなおさらである。 【胴】さん 7点(2004-02-20 08:59:52) (良:1票) |
3.ケビン・コスナーはマニフェスト・デスティニーと称してアメリカ人がインディアンにしてきた虐殺の歴史を重く受け止めなければならないと思っている人なんですよね。今までの西部劇ではインディアンは近代化して洗練されたアメリカ人を引き立たせるための未開で野蛮な存在でしかありませんでした。インディアンは街を襲い、人々を危険に陥れる危険な存在で、野蛮な側面でしか描かれていなかったのです。しかし、この映画はインディアンをなるべく真実に近い姿で描こうとしていますし、初めてインディアンの視点で開拓時代を描こうとした作品なのです。インディアンが弓と矢を持って闘う姿だけでなく、どんな家に住んでいたのか何を食べていたのかといったインディアンの生活や、インディアン自身に注目したことが新しかったし、なるべく真実に近いインディアンを描こうとしたその姿勢にはインディアンに対する敬意を感じます。アメリカ人にとっては開拓時代は痛快なアメリカ建国の歴史かもしれませんが、元々アメリカ大陸に住んでいたインディアンにとってはアメリカ人の言う開拓時代とは自分たちの虐殺の歴史でしかないのです。そういった悲劇を加害者であるアメリカ人自身もきちんと受け止めようという意思がこの映画からは感じられます。 |
2.もし、自分にインディアン・ネームをつけると、「ウケ狙いのコメントばっかり書く男」かな? 【STYX21】さん 9点(2003-11-14 00:14:29) (笑:1票) |
1. ヒロインの”拳を握って立つ女”というインディアンネームが何とも凄くて印象的。え?他には?うーーん、うーーーーん、やっぱ3時間はチト長い…よね? 【へちょちょ】さん 7点(2003-01-20 00:50:57) (良:1票) |