2.僕は、コミュニケーションが上手くない。
決して「嫌い」なのではなく、上手くない。
日々の生活の中で、伝えたいことはあまりにも多いのに、それがあまりにも伝わらない。
そういうことが、ストレスや、怒りになってしまって、結果、コミュニケーションを避ける傾向にある。
幾つもの異なる言語が飛び交い、表現方法が入り混じり、過剰なまでの間接表現を散りばめてこの映画は紡ぎ出されている。
村上春樹の原作は、未読だが、作者の独特の文体とそれが織りなす物語の世界観も、この映画の或る種異様な空気感に直結していると思う。
この映画の中で繰り返し繰り返し表現されている通り、そもそも自分以外の人間のことを完璧に理解することなど不可能。
コミュニケーションの肝とされる「会話」にしたって、果たしてどれだけ相手のことを本当に理解できているか分からない。
劇中の演劇練習でも語られていた通り、世の中のすべての会話も、ただ自分の意思を一方的に伝えるための“きっかけ”に過ぎないのかもしれない。
多重言語による奇妙な作劇、セックス後の断片的な物語創造によってかろうじて関係を繋ぎ止めてきた或る夫婦、鏡越しに発覚する裏切り、車の中での直接目線を合わせない会話……。
映画を彩るすべての要素は、この世界における残酷なまでの行き違いと、コミュニケーションそのものの困難さ、そしてそれでも相手のことを知ろうとすることの重要さを物語っていた。
「本当に他人を知りたいなら、自分自身を見つめるしかない」
結局、本当のことを知り正しく理解できるのは、自分自身のことでしかない。
それは時に、億劫で、怖くて、困難なことだけれど、それをしなければ、伝えたいことが相手に正しく伝わることはないのだろう。
僕は、コミュニケーションが上手くない。けれど、自分自身のことを見つめるというプロセスは、人生においてとても大切だと思っている。今一度、自分が何を伝えたいのか、そのために何ができて、何をすべきなのか、少し落ち着いて考えていこうと思った。
幾重にも重なる多重表現、間接的表現は、必然的に映画の尺を長くし、テンポを鈍重にしている。
映画的な表現として、上手い映画だとは言えないと思うし、すべての人が正しく理解できる映画だとも思わない。
ただ、その長い長い鈍重さと、そこから生まれる分かりにくさや、もどかしさ、そして不意に訪れる人間の再生。それらをすべて含めて、3時間身を委ねてみる。これはそういう映画だと思う。