2.不思議な感じのする『宮本武蔵』映画、であります。美しい風景のショットであったり、奥行きのある構図であったり、武蔵の静かな佇まいであったりと、ズバリズバリと配置されていく印象的な光景に目を奪われ、「そういやこれって戦時中の作品なんだっけ?」と改めて驚かされます。が、一方でその“余裕”のようなものが必ずしも隅々にまで行き渡っていないような気も・・・。1時間に満たない短尺、本来展開されるべき殺陣(吉岡一門との対決)なども省略されて描かれた、切り詰められた本作では、他の映画なら「ま、いいか」と見逃すような点も何かと気になってしまう。例えば、スィスィ~と滑っていくべきハズの移動カメラ、これがガタついて揺れてしまうのが、いかにももどかしく残念。また、ひとつの見せ場である、野々宮姉弟襲撃シーンの長回し。カメラの前で舞台劇風に展開されるのが、ここではどーも段取りクサく見えてしまってしょうがない。あたかも、「実験的」と称する作品が単なる「実験」になってしまい薬品臭が感じられてしまうかのような後味の悪さ・・・。クライマックスの巌流島の対決(武蔵到着の場面ではナゼか越天楽が流れる)、これは割と正攻法の描き方、と思いきや、武蔵と小次郎の距離感が異常に短い!ナゼなんだ~。ここまでくると、恐らく意図的に対決のダイナミックさを削ったんじゃないか、とも思えてくるが、違和感は拭えない。というわけで、何と言いますか、全体的に、「作為」が「作為」として成功している部分と、「作為」が「ケチ臭さ」に感じられる部分が交じり合った、いささか奇妙な作品になっているように思えました。それがこの映画独特の存在感であり、一種前向きな「物足りなさ」、なのかもしれませんが。