3.時代に虐げられる女の苦悩と、それでも生き抜く女の強さ。みな逞しく、美しい。その様に涙が溢れる。
冒頭、各人物によるある種様式的なしゃべり言葉のせいもあり、何を言っているのかが理解し難い。
ただし、台詞の言い回しや、それに伴う人物の動きには、細心の役づくりと演出が施されていることが明らかで、この様式的な馴染み難さが、時代劇として明確に意図しているものだと分かる。
そして、正確には理解できずとも、物語の時代背景や人物の意思はきちんと伝わってきて、観る者を映画世界に没入させることに成功していると思う。
江戸時代末期、幕府公認の“縁切寺”とされた東慶寺を舞台に、女と男の悲喜劇が芳醇な人間描写によって繰り広げられる。
“縁切寺”などと言うと、いかにも時代劇的な特異な題材のようにも聞こえるけれど、いつの時代も男女間のトラブルによる苦しみと悲しみは尽きぬものであり、当然ながらそれは今この時代にもダイレクトに通じる普遍的なドラマ性を孕んでいた。
緻密な時代考証による完璧な時代劇というわけでは決してないけれど、各登場人物の心象に焦点を当てた演出とストーリーテリングは、各人物をとても活き活きと描き出し、映画全体の熱量に繋がっていたと思う。
時に舞台的なダイナミズムをも感じさせる人間描写の豊かさが見事だった。
題材が題材だけに、女優陣がみな素晴らしい。
満島ひかりの存在感はもはや言わずもがな。彼女がこの物語の中心で“生き抜いた”からこそ、映画の豊かさがぐんと上がったと思う。
またヒロイン役の戸田恵梨香の好演が、個人的に最大の嬉しい驚きだった。あまり印象強い女優ではなかったけれど、今作の彼女は非常に魅力的で、今作に相応しい“華”になっていた。
脇を固める樹木希林、キムラ緑子の安定感は流石である。
そして、彼女たちの間を飄々と立ち回り、主人公として映画を締めた大泉洋がやはり素晴らしい。彼が俳優としての地位を固めて久しいが、その勢いはまだまだ留まることを知らないようだ。どこかの映画評では、「現代のフランキー堺だ」という言葉もあったが、まさしくその通りだと思える。
いつの時代も、泣いてきたのは女。いつまでたっても無くならない女性差別や女性蔑視も含め、この物語が孕んでいる現代的な問題意識は無視できない。
しかし、だからと言ってこの映画が画一的なフェミニズムばかりを展開しているのかというと、そうではない。
そういった問題意識を内包しつつ、その上で営まれる女と男の人間関係の愛おしさを描き出していると思う。
女も男も、何かに寄り添って生きていて、何に寄り添うかは自由だ。
女が女に寄り添ったっていいし、その逆もしかり、仏様に寄り添っても、キリスト様に寄り添ったっていい。
大切なのは、誰しも一人では生きていけないということを、他の誰でもない自分自身が認めてあげることだ。
この映画の顛末が伝えることはそういうことだと思う。
だからこそこの映画は、決して完璧ではないけれど、とても「素敵」なのだと思う。