1.2003年の韓国映画版が、世界的な評判に反してどうしようもなく受けつけられなかったことは、今でも“生々しく”覚えている。
「妥協のない凄まじい映画」だとは思ったが、それ以上に明確な嫌悪感が自分自身の価値観の中で際立ち、あまりに不快で救いがないラストの顛末に対して、ラストの主人公の心情とシンクロするように、嫌悪感を超えて反吐が出そうだった。
それなりに数多の映画を観てきているが、これほど明確に“嫌い”と言い切れる映画もなかなかなかった。
それ故に、このハリウッドリメイク版に対しても、高まる興味と相反して拒否感が先行してしまい、随分と遅れた鑑賞となってしまった。
結果としては、ストーリーに対する「嫌悪感」は、当然ながら韓国映画版と相違なかった。
だが、映画として同じように「嫌いか?」どうかと問われると、そうでもない。
むしろ、結構心に残る映画として鑑賞直後の心象が混乱とともに渦巻いている。
「衝撃的」とされる顛末を知っていたため、描き出される“禁忌”に対しての耐性はあったのかもしれない。
ただそれ以上に、韓国映画版に比べて随分と“受け入れられる”映画としてエンドロールを迎えたことが、不思議だった。
ストーリー展開自体は殆ど同じであるはずなのに、ちょっとした描かれ方の違いでこうも印象が変わるものなのか。
実際に何がどう違うのかということは、映画の詳細を忘れてしまっている韓国版を再度観直して検証したいものだが、こういう部分でも映画というものはつくづく奥深いものだと思える。
韓国映画版ではあまりに救いのない物語性に対して、テーマ的にも、登場人物の行動原理的にも、“アンフェア”に感じずにはいられなかったことが、嫌悪感の最たる要因だった。
ただこのリメイク作においては、同じラストの顛末において一抹の救いを感じることができた。
主人公が実は背負っていた罪と、その代償として背負わされた罪。
それが符号するとは決して思えないけれど、復讐する者と復讐される者それぞれの行動原理は理解できるような気がした。
それは、この映画における登場人物たちの描き出され方が“フェア”だったからに他ならない。
繰り返しになるが、今一度傑作とされる韓国映画版を再鑑賞して、両作品の真価を見極めたいと思う。