1.《ネタバレ》 人間性について考えさせられました。私は真面目な経理マンだし、ゴールド免許ももっているし、当然のことながら、殺人も犯罪も無縁に生きてきました。しかしどうしても赤ん坊が生理的に嫌いです。こいつらは気が狂ったように夜中に泣き喚くし、ウンコもしょんべんも垂れ流しだし、かといって、ペットのように外に放置しておいたら警察に逮捕されてしまうし、こんな世話のかかる知能指数の低い動物のどこがかわいいのだろうかと、つくづく思ってしまう。そんな私は霞ヶ関の官僚のように血が通っていない冷血人間なのでしょうか?反対に強盗も殺人も平気で行なうツォツイは、赤ん坊によって心が癒されていく。彼の優しいまなざしを見ていると、この殺人者と私は、どっちが「まともな人間」なのだろうかと考えてしまう。むしろ人間性を喪失しているのは私ではないだろうか?自問自答せずにはいられなかった。もし仮に私が末期がんになって、その上会社をリストラされたらたちまち虚無主義に陥って醜い本性を晒すでしょう。だから私は私のために性悪説を信じることにしている。人間なんてしょせん善人の皮をかぶった悪党だと叫びたい。常に綺羅を飾って生きてきた私の内面は限りなくどす黒い。しかしこの映画は私の内面の考えとは根本的に逆だ。どんな悪党でも根は善人であると臆面もなく、旗幟鮮明に宣言している。こういうとき、私はあえて反論はしない。素直に感動して涙を流せる人間だからだ。ツォツイが赤ん坊と接してやさしい心を取り戻したのと同様に、私もやさしい映画に接していると、恥ずかしげもなく、自分が善人に生まれ変わったような気がしてくる。エンディングは2種類あるという。殺人をおかした主人公が死ぬパターンと、死なないパターン。前者のラストを採用したら、南アフリカ社会における底辺の悲惨な現状を伝える映画になるし、後者だったら、人は再生することができるというメッセージになる。善人が悪人にチェンジすること、悪人が善人にチェンジすること。それはとてつもなく難しいことではなく、ほんのささいなきっかけで実現する。罪に対する罰の是非はともかく、そんな事実を改めて実感することができる良質なヒューマンドラマでした。