1.耳をつんざく爆撃音、ぶつかり合う鉄の質感、あらゆるものが燃え焦げついた臭いが漂ってくるような生々しい空気感。
映画が始まったその瞬間から、「戦場」に放り込まれる。
凄い。と、冒頭から思わず感嘆をもらさずにはいられなかった。
これほどまでに、最初から最後まで“IMAX”で観ることの価値を感じ続けた映画は記憶にない。
この「体感」は極めて意義深い。
第二次世界大戦初期、ドイツ軍に包囲された連合軍は、フランスはダンケルクの海岸に追い詰められる。
この映画は撤退を余儀なくされた連合軍兵たちの「敗走」の様をこれでもかと描きつける。
登場する人物の前後のドラマを一切描かず、無慈悲な戦場での過酷な「敗走」のみをひたすらに映し出すことで、「戦争」を表したこの映画の豪胆さに何より感服する。
映画史には世界中のありとあらゆる戦争を描いた数多の「戦争映画」が存在する。
その数の分、一口で「戦争映画」と言っても、映画表現の“手法”と“目的”は様々だ。
「プライベート・ライアン」のようにリアルな戦闘シーンを究めた作品もあれば、「地獄の黙示録」のように戦場で苛まれた人間の心の闇を果てしなく掘り下げた作品もある。またはチャップリンの「独裁者」のように風刺と情感を込めて、強く反戦を訴えた作品もあろう。
「ダンケルク」は、戦場の「体感」を究めた戦争映画である。
ただ、だからと言ってこの映画が、戦争の「リアル」を描き抜いた映画かというと、それは少し違う。
“本物主義者”のクリストファー・ノーラン監督により、今作も例に違わず極限までCGによる映像処理は避けられている。
本物の空、本物の海、本物の飛行機、本物の船、本物の人間によってすべての映画世界は映し出されている。
それにより、観客はまさに極限まで「本物」に近い“感覚”を味わうことができる。
ただしそれは「リアル」ではない。言い表し方が難しく語弊があるかもしれないが、クリストファー・ノーランは、リアリティを追求するために「本物」を求めているわけではないと思う。
それは、映画という表現方法で「何か」を伝える上で、必ずしもリアリティの追求が「正解」ではないことを、この偏屈な映画監督は知っているからだ。
「現実」に起こったことをありのままに表すよりも、より効果的に伝えるべきテーマを観客に表現する方法は確実にあり、それを導き出すために、本物の素材を使い、スクリーン上で目に映るモノのリアリティを高めるという試み。
その一連のプロセスこそが「映画」をつくることだと、クリストファー・ノーランは信じて疑わない。
そのつくり手の「信念」がこの「戦争映画」には溢れ出ている。
だからこそ、ただただ「敗走」を繰り返すという、あまりに無骨でストーリー性に乏しい映画であるにも関わらず、圧倒的に「面白い」。