4.《ネタバレ》 この映画を見る度に、男性がいかに脆く純粋な生き物で、女性がいじらしくも強い生き物であるかを実感する。
ジョゼのキツい物言いは、恐らく自らの不安・恐怖・コンプレックスを隠すための防壁なのだろう。
乳母車に隠れ乗る事でしか外界を知る術がないジョゼ。
外の世界を知りたいジョゼが自分の願いを叶えるには、
「好奇の目を向ける人々の存在」というリスクを背負う必要がある。
ゆえに自己防衛本能が生まれる。
また、それを譲れないのは「壊れ物だろうと私は私」という自我確立の意味もあるのだろう。
誰にも頼らず、誰に頼ればいいのかも解らず、頼み方も知らないとは、なんとも悲しい。
しかし、そうした生き方を選ぶ事しか彼女は知らなかったのだろう。
強いフリをした弱い人間は、肝心な時に素直になれず、本心とは裏腹な事ばかり口にする。
「帰れと言われて帰る奴は帰れ!」と心にもない事を泣き叫びつつ、
すぐに「・・・嘘や、おって」と翻すいじらしさには、同性の私でさえ彼女を愛しく感じた。
愛する人に心からの望みを口に出来たからこそ、ジョゼは纏っていた鎧を脱ぎ、女になったのだろう。
しかし、ジョゼには二人の関係が永遠に続かない事も解っていた。
出来るだけ長く一緒にいたい気持ち、変わりゆく自分、叶った夢、そこにあった幸せ。
それだけで十分なのだと、彼女は自分に言い聞かせていたようにも思える。
それがサガン著「一年ののち」にの、例の台詞に帰結するのだろう。
対する恒夫は、純粋にジョゼを愛するも、背負う物の大きさに気づき、逃げ出す。
しかし「失って初めて気づく存在の大きさ」で、初めて心の痛みを知る。
寂しさに弱いせいか無意識に「独り」を回避してきた恒夫の決断が、傷口に塩を塗る結果となってしまったのだろう。
みっともない姿を晒しながらも涙が止まらない彼の姿は、切なさを覚える。
最後、ジョゼの目は力強く、凛としている。
過去、現在、未来の全てを受け入れ、生きていこうとする強さが感じられた。
池脇千鶴の「セックスの無い恋愛など有り得ないから脱いだ」という発言と、彼女のその度胸に盛大な拍手!
<追記>
前回鑑賞から2~3年経ち、改めて見直したが、何故か初めて涙が出てきた場面があった。
それは、二人が結ばれた時のジョゼの「うち、あんたのこと好きや」と言う場面。
なぜ、こんなに優しく切ないのだろう。