3.《ネタバレ》 男2人・女1人の「三角関係」ドラマは、“誰に感情移入できるか”じゃなく、3人のいずれにも感情移入できる…というか、いずれの心情をも理解できるか否かが大事なんんだと思う。愛する者、愛される者、愛されなかった者、それぞれの苦悩や歓喜、とまどい、揺れ動く想い…。そんな3者それぞれの“立場”を、観客はハラハラしながら、切なさに涙しながら、その行方をただ見守っていく。そして、一方的なハッピーエンドなどあり得ない(2人の恋が成就した時、そこには、かならず1人の“敗者”が残される…)という「真理(!)」を体現するがゆえに、すぐれた「三角関係」ドラマは、ぼくたちに《愛》というものの甘美さと残酷さを「経験」として与えてくれるのだ。
…ぼくはこの映画の、チャン・ツィイーに、金城武に、とりわけアンディ・ラウに、心から魅せられた。彼らのいずれをも、ぼくは人間として「共感」できたのだった。それは、CGとワイヤー操作を駆使したどんなに華麗なアクションシーン(たとえそれらが、あの素晴らしいキン・フー監督の『山中伝僖』や『侠女』をより精巧に“再現”したものだったにせよ)よりも、はるかに息詰まり、胸を高鳴らせ、眼を逸らせない、男と女と男の情念の闘争劇を繰り広げていた。確かにあざとく、作り過ぎの陰謀をめぐるストーリーでありながら、彼ら3人の「愛」をめぐるドラマこそが見る者を圧倒するのだった。
このような「人間(の愛)」を、チャン・イーモゥ監督がかくも正面きって描いたことなどなかったはずだ。イーモゥの映画は、これまで常に「人間」など物語の、あるいは映像(…彼の映画を見ていると、いつも「はじめに映像ありき」という倒錯した想いにとらわれてしまう。あの色彩も、あの構図も、すべてが空しいまでに美し過ぎる)のための“手段”でしかない。なるほど、彼は「天才的」な映像の作り手であり、物語の語り手かもしれない。しかし、そこには、「人間」がいない。つまり、「愛」がないのだった…。
そんなイーモゥが、ついに「人間(の愛)」を描いた。相変わらず審美的すぎる「美しい画」の洪水のなか、それでも確かに「人間」の息づかいが聞こえてきた。
…それゆえ、ぼくはこの映画を愛する。