3.《ネタバレ》 子供の自己保身のためについた小さな嘘が、堅実に生きてきた二人の人生を破壊してしまう…世間の風評・決めつけの恐ろしさをテーマにした傑作。これが、この映画を見たときの私の感想でした。
しかし、その後、オードリー・ヘップバーンの自伝(彼女が書いたものではなく、別の人物が、資料や取材に基づいて書いたもの)を読む機会がありました。その中で、この作品は公開当時のアメリカで「同性愛がテーマなのに、中途半端な描写に終始した駄作」といった否定的な評価をされたと知りました。これに対し私は「この映画自体が“同性愛をテーマにしたものでなければならない”という当時の世間の風評・決めつけによって、おとしめられてしまったのではないだろうか…」と思いました。また、これも後で知りましたが、映画の原作である戯曲「子供の時間」の作者リリアン・ヘルマンも「同性愛をテーマにしたものではない」と言っていたそうです。それなのに…
映画の中で、確かにマーサは「世間が言うように、実は…」というようなことを言っています。しかし、私から見れば、人生を狂わされた後の状況下、「そういえば、私は…かもしれない…いや、きっとそうだったのだ、そうに違いない。私が、友人の人生をダメにしてしまったのだ」という内省的で生真面目な思考により、自分を追い込んでしまった言動のように思っています。もし、子供の嘘が【同性愛】でなく、例えば【窃盗】の疑いを抱かせるものであっても、きっとマーサなら「私は、実際に盗みをしていなくても、人のものを羨ましく、盗みたいという気持ちを、心の片隅で常に抱いてきた。だから、世間が言うように、私は窃盗犯として疑われても仕方なかったのだ。私の根っからの心の罪が、噂を招き、友人の人生をダメにしてしまったのだ」と自分を追い込み、映画と同じような結末を迎えていたのではないか…と思われます。
当作品が酷評された後、「これなら文句ないだろう!」とでも言わんばかりにワイラー監督がリベンジするように作り上げたのが、コレクター(1965年)なのかな?…と私は思っています。あくまでも個人的な推測ですが…。
さて、採点ですが、私にとって、世間の風評・決めつけの恐ろしさを、二重の意味(映画自体のテーマ/公開当時のアメリカでの評価)で考えさせられた名作として10点を献上します。