3.「怪獣がいっぱい出てきてたのしい!」
まるで幼稚園児並みの感想だけれど、実際この映画の素晴らしさを表現するにはこの一言で充分だと思う。
なぜならば、この映画の製作陣は、観客にそれ以外の感想を求めていないからだ。
むしろ、観客がどう思うかなんて二の次で、怪獣映画や特撮映画大好きでたまらない自分たち自身が、観たくて仕方がない怪獣映画を“オタク魂”全開で作りきったのだと思える。
「俺が観たいキングコングはこうだッ!!」
と、言わんばかりの振り切れた映画世界が、同じく怪獣映画ファンとして、もう堪らない。
当初この映画に対する自分の反応は正直薄かった。
2005年のピーター・ジャクソン監督によるリメイク版に対する記憶も新しく、“キングコング”という題材自体に、今更な思いが先行したこともその要因の一つだろう。
ピーター・ジャクソン版は決して悪い映画ではなく、あの監督ならではの膨大な映像的物量を楽しめたとは思うが、1933年のオリジナル版に対して良い意味でも悪い意味でも忠実だったことで、どうしても「時代錯誤」な印象が際立ち、現代の娯楽映画として熱く迫るものがなかった。
そもそも1933年のオリジナル版には、「黒人差別」に対するメタファーが含まれているとも言われ、そういう題材をそのままのテーマ性で描き出すというのは、やはり色々な観点から“無理”があったというものだ。
しかし、この新しい「キングコング」には、そういった幾つものリメイク版が孕んでいた時代錯誤感を一蹴する描写で満ち溢れていた。
過去作のように、コングが人間により“鎖”に縛られ屈服する姿などは一切描かれない。
彼は終始一貫して、神々しいほどに強大で、只々雄々しい。
唯一無二の島の巨神であり、絶大な尊敬と恐怖を等しく内包する「畏怖」の対象として尊厳を保ち続ける。
強敵(悪役怪獣)とのラストマッチの最中、絡まった巨大な鎖を引き千切って反撃する様は、まさにその過去作に対するアンチテーゼの象徴だった。
熱い。コングのドラミングに呼応するように血潮が湧き上がってくるようだった。
怪獣を圧倒的な「畏怖」の象徴として描き出すことこそが、「怪獣映画」の本懐だと僕は思う。
そのことを、正しい憧れと遊び心を持ってして追求したこの映画を否定する余地は微塵もない。
鑑賞後、友人が「5歳の息子を連れて観に行っていいか?」と聞いてきた。
僕は「PG12」指定もなんのその即座に“太鼓判”を押した。
どうやら存分に楽しめたようで、とてもとても羨ましい。僕もはやく我が息子と「怪獣映画」を観に行きたいものだ。
エンドロール後のシークエンスにもニヤつきが止まらなかったが、順調にいけば2020年に「あの対決」が実現するらしい。
その時、息子は6歳。叶うことなら今すぐにでも前売り券を買いに行きたい。