1.東京出張中、時刻は0時前、いつものように新宿の映画館を後にする。
歌舞伎町の雑踏を抜け、大久保のビジネスホテルまで歩いていく。
その間ずうっと言葉にならない感情がこびりついて離れない。
その感情が、映画のタイトルの通り“怒り”なのか、または“悲しみ”なのか、まったく別の何かなのか、判別がつかなかった。
“怒り”というものは、殆どすべての動物が持つ感情であり、衝動だ。
ただし、その中でも人間が不自由で面倒なのは、“怒り”の矛先を自分自身に向けてしまえることだと思う。
もし、自分自身に対して怒るなんてことが出来なければ、人間はもっと単純で呑気な動物として存在していたことだろう。
この群像劇で描かれる人間たちが抱える“怒り”も然り。
最初は外部に撒き散らせていたとしても、次第に自身の内面に向けられ、やがて膨れ上がったその感情は行き場を見失う。
必然的にそこには悲しみが生まれ、傷つき、絶望に突き落とされる。
「嗚呼、なんて惨い映画なんだろう」と思った。あまりにも悲しくて、胸を掻きむしりたくなった。
ただ同時に、その惨さも、不自由さも、面倒臭さも、悲しみも、そして怒りも、全部ひっくるめて人間なのだと思い知った。
泣き叫ぼうが、怒り狂おうが、何をしようがそれを認めて人間として存在するしか我々に術はないのだと思った。
この惨い映画に安直な救いは無い。
あるのは、声にならない声を虚空に打ち付け、それでも生きていく人間の姿だ。
ラストの烈しく悲しい少女の慟哭はその極みだ。
敢えて言うまでもないが、キャストが皆凄い。
メインキャストのそれぞれがキャリアハイの演技を見せていると言って過言ではない。
渡辺謙の貫禄、宮崎あおいの意地、妻夫木聡の艶めかしさ、綾野剛の妖しさ、松山ケンイチの危うさ、森山未來の狂気、そして、広瀬すずの伝説。
彼らが剥き出す感情の総てを李相日監督がコントロールし、坂本龍一の壮大なスコアが包み込む。
危ういバランスを孕んだ映画だが、ちょっと凄すぎる。
当然作品としての好き嫌いはあろうが、この映画を観ずして今後の日本映画は語れないだろうとすら思える。
自身の感情の整理がまったくつかぬまま、虚無感に苛まれつつ大久保に辿り着いた。
とてもそのまま眠れる気がしなかったので、虚無に反発するように強引に欲望を掻き立て、中華料理屋でラーメンとビールを流し込んだ0時過ぎ。