1.少し日にちを空けて、2度劇場鑑賞した。或る疑心を解消するためだ。
即ちそれは、この映画の主人公が放った“ジョーク”の真意とは何だったのかということ。
何が真実で、何が虚構なのか。そもそも真実と虚構の境界など存在しなかったのか。
初回鑑賞後、姿かたちさえも曖昧なその疑いが、日を追うごとに輪郭のみくっきりと浮かび上がってくるようだった。
そうして2度目の鑑賞を終え、“疑心”はむしろ益々深まり、同時に、「悪意」に対する恍惚も益々深まっていることに気付いた。圧倒的な充足感。映し出されるすべてが、禍々しくて、美しい。いや参った。
DCコミックスが生み出した稀代のヴィランのビギニングを描き出すにあたり、ビジュアル、ストーリーテリング、パフォーマンス、そして映画としてあるべき性質と時代性において、この映画の完成度の高さはもはや「異常」だ。
何をおいても、ホアキン・フェニックスが演じる“ジョーカー”が凄まじい。
ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレッド・レト、名だたる俳優たちがこのヴィラン役に挑み、それぞれが見事なジョーカー像を形作り、体現してきた。
しかし、その全てが本作のホアキン・フェニックスによるジョーカーのためにあったのではないかと思えるくらい、圧倒的だった。
その笑い方、走り方、表情と骨格、もっと言えば、皺の一つ一つ、筋の一本一本に至るまでに、彼が表現する「異常」と「狂気」が絡みつくように纏われていた。
その様は、異質ではあるが、あまりにも自然に見え、彼が劇中で言う通り、本当に狂っているのが一体どちらなのか分からなくなってくる。
奇しくも現実の世界では、この映画の公開と同時進行で、仮面を被った民衆が不満と怒りを突き上げている。
映画の中のピエロの仮面が嘲笑うかのように、我々観客は、虚実の境目を見失いそうになる。
そして無意識のうちに、現実社会の問題に対する答えを、虚構のヴィランに求めようとする。
しかし、“ジョーカー”は、そんな我々の淡く無責任な願望すらも見越して、ヒャーハハハと笑い、蔑む。
「馬鹿か、お前たちは。そんなこと俺に関係あるものか」と。
荒んだ世界と、傷ついた心が何を生み出すのか。
これは決して“ジョーク”ではない。