2.この映画の評価は政治的な思想に左右される面もあるはず。いろんな先入観をもって見てしまう映画でもある。だが、私はこの映画を評価する人もしない人も認めた上でこの点数とします。敗戦国が勝者によって一方的に裁かれる映画として、有名な「ニュルンベルク裁判」という映画があります。若きマクシミリアン・シェルが敗戦国ドイツの弁護士として戦犯の弁護にあたり、法廷で堂々と連合国の正義の欺まんを突く弁舌でアカデミーを取りました。見たのがずいぶん前なので、完全にはストーリーが思い出せないものの、一見ナチスを弁護するかのようなシェルの演技で、なぜユダヤ資本が支配するハリウッドの映画界でオスカーを取れたのか疑問でした。その疑問が「真実のマレーネ・ディートリッヒ」という映画を見て氷解した。ニュルンベルク~ではディートリッヒ扮するある女性(確か戦争未亡人)が「ドイツ一般市民はユダヤ人の虐殺を知っていたかどうか」という問いに、劇中では「もちろん知らなかった」と答えるのですが、撮影中にディートリッヒ本人はその台詞を言うのを当初拒否したというのです。しかし、共演の俳優が「ナチスと闘った君が言うから観客は(それを)信じるのだ」と諭したというのです。ドイツは赦されたわけです。歴史的事実、どのような国家的行為があったか詳細には知りません。だが、罪を受け入れ赦されることを「許された映画」だからこそ、シェルの弁舌が感動を呼び、ディートリッヒはドイツ人を免罪する台詞を述べる必要があったのではないでしょうか。かたや、この映画。きっと、観客が感じるべきものは、どこかできっと共通しているし、切り口や作りようによっては、思想に関係なく大勢の人々に感動を与えたはず。ですが、結果はこの通り。片方は歴史に残る名作であり、もう一作は政治的プロパガンダとの色眼鏡で見られる迷作です。邦画として歴史に名を残したとの評価も聞いたことはありません。戦争の被害と加害、政治的立場を超えて感動を呼ぶ内容であってほしかったが、そうではない。そこは日本国民のひとりとして残念でもあるし、恥ずかしくもあります。