1.《ネタバレ》 子どもの頃、東京のビル街に巨大な宇宙人が立っているスチル写真を見た記憶があるが、実際に映画を見るとそういうものでは全くなかったので騙されたと気づいた。他の写真を見てもあからさまな嘘が多いが、こういうのは突っ込まずに笑って済ませることが期待されていたらしい。
また宇宙人の着ぐるみは、アクションが不要だからか中の人に合わせる気がないようで、頭と手足が全て同じ大きさで揃えてあるので均整が取れている。しかし立っていると着ぐるみに皺ができ、いかにも布のような薄手の素材で作ったように見えるのはシーツを被ったオバケのようでもあるが、制作側としてはこれで特に問題があるとは思っていなかったらしい。
内容的には、前半は普通の娯楽映画のようで気楽に見られる。市井の人々の会話が楽しいが、学者一家がまるで身分の違う人のように扱われていたのは当時の社会通念を示したようで興味深い。また当時の東京郊外の風景や(杉並区?)、開発初期の小型ロケットが出ていたのも時代を感じさせる。しかし後半はあまりにも適当な展開になってしまうのが残念なことで、博士を誘拐した悪党連中は行方不明で終わり、また満を持したかのように宇宙人が介入したタイミングも合理的には説明できない。
テーマとの関係で見れば、人類を救うための使用を最後にして原水爆が地上から消えた、という感じのハッピーエンドにしたかったのかと想像される。しかしそれに心から共感するためには、実物が失われても知識や技術や保有の動機は失われていないはずだ、と考えないようにする必要があるので難しい。反核にしても観念論にとどまっており、とても「ゴジラ」(1954)のようなインパクトは感じられない。
また最後のミサイルは宇宙人が製造したわけだが、これは心正しい人々が正しい目的で核兵器を使うのは容認されるということなのか。一般に反核というのは核兵器の存在自体が悪なのであって、目的を問わず製造・使用などとんでもないというのが普通だろうが、この映画では保有国によっては批判の対象から除外するのと同様の印象があって理不尽に思われる。
ただ、他のレビュアーが書かれているように、ラストの妙なほのぼの感が非常に印象的な映画ではあった。