1.「アートであれば、裸になってもいい」と、大島優子がきっぱりと言った。
一昔前であればアイドルの言動としてはあり得ないその様を見て、これが今の時代の“アイドル”の姿なのだなと妙に納得した。
自分の価値観の中では、もうすでに“アイドル”にうつつを抜かす歳ではないという認識なので、残念ながら今この瞬間の「時代」を騒がす「AKB48」のファンというわけではない。
ただどんな形であれ、これほどまで世間の話題の中に出現し、確実に浸透度を高めていく様を見ていると、やはり興味深い存在にはなってきている。
にわかの知識で論じるのはとてもおこがましいと思うが、「AKB48」というアイドルの最大の特徴は、「アイドル」という“システム”自体を表立たせ、その“表裏”両面を“売り”としたことだと思う。
彼女たちがどのように集まり、どのように成長し、どのようにせめぎ合い、どのように生き残っているのか。
そういうことを一つ一つ“表現”することを「魅力」としたことが、成功の要因だろうと思う。
ただし、それは必ずしも包み隠さず“有りのまま”を表現しているということではない。
このドキュメンタリー映画も含め、あらゆるメディアの中に登場する彼女たちの言動が、それぞれの人間そのものの姿だとは決して思わない。
とても強く思ったことは、彼女たちはプロフェッショナルだということだ。良い悪いではなく、本当の意味で「アイドル」のプロなのだと思った。
可愛らしさや笑顔はもちろん、涙や怒りや嫉妬や滑稽さまでもが、自分たちが売るべき「商品」であることを彼女たちは認識している。
自分たちがどんな表情を見せれば、どういう効果を得られるということをきちんと計算し、勝算を持っている。
似つかわしくない言い方をすれば、「飯を食っていくため」にアイドルという仕事をしていることを、一人一人が本質的に理解しているように思えた。
そういう冷静な“割り切り”を根底に敷いた上で、自分たちに与えられた“限られた時間”を精一杯に突っ走る。
その様こそが、「AKB48」が時代に受け入れられた最たる要因なのかもしれない。
ドキュメンタリー映画としては主要メンバーのインタビューを羅列しただけのもので程度が高いとは言い難い。
ただし、それでも映し出された彼女たちの姿を見て、今更ながらうつつを抜かしてしまいそうにはなってきた。