2.《ネタバレ》 二番煎じ。パクリ屋。という向きもありましょう。
実をいうと私は指輪のところから中盤まで「アイデンティティー」のパクリかと思いながら見ていたのです。なので各種の釣り餌(雹とか盲目の父とかその他いろいろ)には「さもありなん」となんの迷いも感じなかったのだが。
例によって ネタバレしますので見てない方はお読みにならぬよう。
この作品において作り手が目指したのはたぶん「いまわの際の視覚化」と「臨場感」のようなものでしょう。なぜそう思うかというと、私にしてはめずらしくエンドロールを最後まで見てしまったからです。上空から撮ったまるではっきりせぬ映像、そこにこれまたよくわからぬ人物などがごちゃごちゃ急に出てきたり。これは明らかに魂の「視覚」(そんなものあるのか)というつもりでしょう。
ラストのご臨終場面に重きを置いたところも「ジェイコブ」とは全然違うし、死の間際の「臨場感」を目的としたということでしょう。そういう意味では、丹波哲郎と方向性は似ていると思う。
それと、この「STAY」は「執着」と訳すのが正しいように思う。2回目に見ると冒頭の高速道路からユアン・マクレガーに乗り移るようにシフトしているから、最初からネタばらししていたことになるのだが、(もちろん最初に見たときは?くらいにしか思わない)ヘンリーがサムとなってえんえん見せるワケのわからない自殺騒ぎ、これによるヘンリーの生への執着の「臨場感」も描きたかったのでしょう。
映画として「ジェイコブ」とどちらが面白いかといったらもう、監督さんの才能と力量が横綱と幕下くらいに差があると言わざるを得ない。
そういうことなのだが、エンドロールを見ながら妙にしみじみとした気持ちになるこの作品。いったいユアンのズボンの異常な短さになんの意味があったのか(普通に歩いて靴下が見える。座るとスネまる出し)。あとナオミ・ワッツにはダメ出ししたい。何に出ていてもナオミ・ワッツでしかないその大根ぶり(女トラボルタか?)。
結論は「ジェイコブ」の後に「ジェイコブ」なし。(丹波哲郎でお願いします。)