5.《ネタバレ》 1月5日。
深夜の札幌で部屋の窓を開け放ち、酷寒の中を震えながら観た。
「そうやって観るのが正しい」と自分の映画アンテナが教えてくれたからだ。
…。
なんつー過激さ。《詩》で殺す男、ウィリアム・ブレイク。
「『草の葉』(米国文学の象徴)を持ってねーか」
「うるせーオレはホイットマンじゃねえ! オレの詩はッ!」ダキューン。
「サインを頂けませんか」
「コレが俺のサインだッ!」グサッ。
etc、etc…。
そもそも序盤のあたりで、やたら目立つボストン・バッグを抱えてる姿が既にカフカの『アメリカ』の第一章を意識させる絵だし(なので「いつカバンを盗られるんじゃあ!」と焦れまくってた)、たどり着いた《機械》町ではいきなり(エミリー・?)ディキンソンから「この西部にゃあ神秘主義者の仕事なんてねーよ! 俺たちゃゲンブツ扱ってんのよ」とお払い箱(だが意外にブレイクの似顔絵は巧く書く)。いろいろあった挙句に《誰でもない古代詩人》ヴェルギリウスに救われて、異界へ、地獄へ、天界へと『神曲』マニアックな放浪を開始。
こりゃ西部劇版の『薔薇の名前』ですな。多分ジャームッシュの脳内では、各キャラにそれぞれ対応する芸術家が割り当たっているんじゃないかな。
…するとね、気になってくるんですよ。途中で出会う、死んだ子鹿。『バンビ』(=ディズニー)なのかねーやっぱり…そこんとこ読み解いてみたいような、読み解いても所詮はしゃーないような…。
自分的にはやっぱり、ジャームッシュは面白いけどそれ以上のモノじゃないなあ。イメージが広がらなさすぎで。ヤン・シュワンクマイエル作品みたいに、無辺の記号空間に放り込まれるような、脳がマッシロにリセットされる感覚がなく、常に何かの記号がついて回る。それは別に悪い事じゃないけど、オイラが求めているモノでもないのれす。
これは映画そのものの問題じゃなくて、やっぱ相性ってコトなんでしょうね。