3.《ネタバレ》 『映画は映画的であるほどドラマから遠ざかる』と、
本広克行が尊敬しているらしい押井守が書いている。
ドラマの本質はダイアログと状況設定にあり、
映像的主張はドラマを停滞させるから、というわけだ。
バストショット主体の対話劇でドラマは十分に機能するが、
劇場用作品となるとそうはいかない。映画的な見せ場こそ肝要だからである。
となると、既に盛んに批判されている荒唐無稽なバス突入や、
織田裕二の直感的判断と疾走こそ、
ドラマ的には不正解、映画的には正解だと見る事が出来る。
合理的動機に拠らない活劇であり、スペクタクルだからである。
あるいは、膨大なエキストラを統制しまとめあげた署内セットのモブシーンの活気、
充実した空撮、盛り上げどころで目一杯活用されるクレーン撮影の快いリズム感、
そして事件解決後の織田と柳葉のツーショットに
適切に差し込まれた朝陽の演出なども同様だ。
一方で、戒名を巡るギャグやラストの織田の演説などは、
ドラマ的には妥当であり、映画的には妨げでしかない。
活字、言語が機能するシーンだからである。
そうしたドラマ―映画のバランスの中途半端さは、
テレビドラマを始点とするシリーズ映画ゆえの性質にも拠るのだろう。
ステマを含む局の様々なしがらみ、制約、ファンサービスにも折り合いをつけながら、
映画的こだわりが伝わるのが何よりである。